37.5歳の人生スナップ Vol.97
2019.12.03
LIFE STYLE

「箱根で好走できなかったからこそ監督になれた」。 東洋大駅伝部監督・酒井俊幸の箱根にかける思い

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「愛情はかけても情けはかけない。監督をするうえで私が大切にしていることです」。

そう語るのは、東洋大学で陸上競技部長距離部門の監督を務める酒井俊幸さん(43歳)。

酒井俊幸

酒井さんが監督に就任したのは2009年。当時、最年少の32歳での監督就任というプレッシャーを抱えながらも、東洋大を総合優勝2連覇に導いた。そんな酒井監督の1年は、駅伝で始まり、駅伝で終わる。

「出雲、全日本、箱根と3大駅伝のなかで、準備がいちばんかかるのは箱根駅伝ですね。走る人数も多いし、道の高低差もある。年間を通して箱根駅伝を見据えたチーム作りをするのが、私の監督として仕事のひとつです」。

チーム作りに終わりは無い。1年をかけてメンバーのコンディションを高め、チームの結束を強くしていく。正月が終わればまたすぐに1年後の箱根のために新たなメンバーでリスタートが切られる。学生時代から自身も箱根駅伝選手として活躍してきた酒井さん。しかし、学生時代は「箱根駅伝で好走できなかった」選手だったと笑う。

箱根駅伝の名監督はどのように誕生したのだろうか。

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目標は「箱根駅伝」!

酒井俊幸

酒井さんが陸上を始めたのは意外にも高校生からだった。

「私の中学には当時陸上部はありませんでした。駅伝大会が近づいた頃に選手としてかり出され、好成績を残してから自信がついて気持ちが陸上に向いていきました」。

進学先は野球で甲子園、ハンドボールや自転車競技などで何度もインターハイに出場する私立のスポーツ強豪校。学内で特別進学クラスに籍を置いていたので、部活動を行うクラスメートはおらず、練習はほかの部員から遅れて参加し、ひとりで練習していたという。それでも高校2年時には念願叶って、全国高校駅伝大会に出場することができた。

「そのときはこれが全国大会かと、レベルの高さに愕然としましたね。そもそもの目標設定もそこへ向かう道筋も、何もかも自分は甘かったと思い知らされましたね。今思えば、ビジョンがない状態でした」。

全国レベルの厳しさを痛感するなかで、酒井さんは自然とさらなる活躍の場を求めるようになる。それが現在の仕事の主軸でもある、大学駅伝だ。

全国高校駅伝の出場経験もあり、東洋大学からスカウトを受けた酒井さん。当然ながら正月の風物詩ともいえる箱根駅伝の存在は知っていたが、いざ自分が走れるかもしれないと考えると、大学生活に対する希望と、自分の力が果たして通用するのかという不安が入り混じった。

「テレビで見ていたものに自分が出るかもしれない。そんな想像をしたときは、“緊張している自分”というものを感じました。でも『大学では箱根駅伝を必ず走る』、という自分のなかの目標設定がハッキリしていたので、高校よリもレベルの高い陸上競技の練習も、初めての寮生活も、教職課程の履修も迷いなく邁進できましたね」。

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当日に起用から外された“キャプテン”

酒井俊幸

大学でカルチャーショックを受けたのは、まず寮生活だ。福島から上京して、生まれて初めての家族以外との共同生活。1年生から4年生まで、“ごちゃまぜ”で過ごす寮での日々では忘れられないという。

「7畳ぐらいの部屋に3人、布団を川の字で敷いて寝ていました。一応言っておくと、今の学生はもっと大事にされていますので私のときとは環境が違いますよ(笑)。でも面倒見のいい先輩にいろいろ教えてもらったり、ときには厳しく注意されたり。住めば都……じゃないですけど、いい思い出は多いです。箱根駅伝ってまさにワンチームで、個人さえ頑張ればいいというものではない。寮生活のなかでも少しずつチームワークを育んでいくことが大事。箱根駅伝もまた、チーム全員で挑むものです」。

駅伝選手のキャンパスライフとはどんなものなのだろう。当時の生活を振り返ってもらうと、その毎日は想像以上に陸上競技一色で染まっていた。

「長距離選手は、朝食前から練習するのが当たり前です。朝起きてすぐトレーニングして、そこから授業に出る。昼食は学食で済ませて、夕方にはまた練習を始めて、夜は寮の清掃や体のケアをするという毎日です。アルバイトをするような余裕はとてもなかったですね」。

さらに酒井さんは通常の授業に加えて教職課程もプラスして取るという多忙な日々を過ごしていた。大学では個々の授業もバラバラなため、自分自身で体のケアやトレーニング量を調整する力が求められた。

「スケジュール表をのぞき込み、どこで勉強して、どこで集中的にトレーニングをして、体のケアをするか。最終的な裁量が自分に委ねられているので、甘えを生まない環境を自分でつくるしかないと思いました」。

酒井俊幸

大学1年次から3年連続で憧れだった箱根駅伝に出場。目標としていた大舞台を初めて走ったときの光景は今でも鮮明に覚えているという。

「沿道の声援が二重、三重になって響いて聞こえてきます。それが走り始めてからずっと絶えない。箱根駅伝というのはすごく特殊な場所で、大舞台で力を発揮する選手と、どうしても発揮できない選手がいます。私は、どちらかというと後者でした。勝負事はどこまで、本番を想定して準備できるか。私は大会にむけたコンディショニングという点で、準備不足のまま試合を迎えていた。今ならもっと食育やフィジカル強化を行い、万全な状態で試合に臨めたと思いますが、あの時はそれができなかった。レースでプラン通り走れるのも、走れないのも、どちらも必然です。」

念願の箱根駅伝で走れるという感動は大きかったが、思うような結果は残せなかった。持ちタイムではチームのエースだった酒井さん。4年次にはキャプテンに任命され、チームを引っぱり、仲間をどうケアするか考えなくてはならない。主将として背負うものはさらに大きくなった。

「これまではチームに自分がどれだけ貢献できるかを考えればよかった。あくまでチームの中の一員という感覚です。しかしキャプテンになったことで、いろいろなことが重くのしかかってきました」。

箱根の本番が近づくにつれ、徐々にコンディションは下がっていった。そして酒井さんの陸上人生の中でも忘れられない出来事が起こってしまう。

「箱根駅伝は、当日の朝6時50分までなら走者のメンバー変更ができます。今でも、ハッキリと覚えています。大会の前々日、キャプテンだった私ともうひとりの選手が監督の前に呼ばれて、こういう理由で君は起用できない、その代わりに私の隣の選手を起用する、と告げられました」。

キャプテンとして陸上部に捧げた1年間、駅伝メンバーから外れることを告げられた酒井さん。しかしその苦い経験がいまの監督人生に大きく影響を与えているという。いったいなぜなのか? その続きは後編で。

藤野ゆり=取材・文 小島マサヒロ=写真

# 37.5歳の人生スナップ# 東洋大学# 箱根駅伝# 酒井俊幸
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