37.5歳の人生スナップ Vol.58
2019.05.20
LIFE STYLE

限界を乗り越える「心のチカラ」〜鉄人クライマー・小西浩文の流儀〜

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日本人最多となる6座の8000m峰で無酸素登頂を果たした登山家、小西浩文氏。

「高尾山でも人は遭難する。山に行くということは、“好むと好まざるとに関わらず、死生の現場に入らざるを得ない”ということです」。

こう語るのは、日本を代表する登山家の小西浩文氏(57歳)だ。

小西氏はこれまで、世界に14座ある8000m峰のうち6座に無酸素で登頂してきた実績を持つ。
8000m以上の高峰の酸素濃度は7%程度、それは平地の1/3の値だ。視力は減退し思考力は低下、さらには脳機能障害を引き起こし、登山家を含めたほとんどの人は30秒もすれば失神してしまうという。なかには、環境の急激な変化や低酸素状態が原因の急性脳浮腫や肺水腫で亡くなってしまう人もいるそうだ。気温は-10℃〜-40℃。無風快晴ということはなく、風速は常時10〜40m/s。もちろん、そこに生命の営みはない。

このように人間が活動することを許されない厳しい環境のため、登山家の中では8000m以上を「死の地帯」「デスゾーン」などと呼ぶという。

本人提供=写真

実際、これまでに小西氏とロープを結んできたザイルパートナーのうち、山で命を落とした人の数は59名にものぼるという。またかつて小西氏が生涯のパートナーと決めたシェルパ(ヒマラヤ登山の現地ガイドで、登山チームの一員として荷物運搬などを務める人)は、小西氏の目の前で雪崩に巻き込まれ、今でもエベレストの雪の中に埋まっているという。

なぜ小西氏は、自らを危険に晒してまで山頂を目指してきたのだろうか。多くの仲間の命を目の前で失ってきたにも関わらず、何が小西氏を山頂へと突き動かしてきたのだろうか。


極限の世界

小西氏は、15歳のときに本格的に登山を始め、1982年のシシャパンマ(8027m)を皮切りに、ブロードピーク(8051m)、ガッシャーブルムⅡ峰(8035m)、チョー・オユー(8201m)、ダウラギリⅠ峰(8167m)、ガッシャーブルムⅠ峰(8068m)と、地球上に14座ある8000m峰のうち6座を無酸素で登頂することに成功した。

小西氏が日本屈指のクライマーと言われてきた理由は、彼が登山家として自らに課していたふたつのこだわりにある。ひとつは、無酸素で登頂するということ。酸素ボンベを使用せず、自分の心臓と肺と肉体だけで登るということだ。もうひとつは、可能な限り最小人数で登るということだった。

それが当時の数少ない先鋭的な登山家たちが行っていた極限の挑戦であり、小西氏も同様の価値を見出していた。なかでも、ラインホルト・メスナーが1978年にエベレストの無酸素登頂に成功したときに、“ヒマラヤ山脈の高峰を無酸素で登りたい”という根源的な欲求が抑えられなくなったそうだ。

愚問とは知りながらも、なぜそんな危険なことに挑戦してきたのかを訊くと、小西氏は淡々とした口調でこのように答えた。

「客観的にみて、最も危険で最も困難だからこそ、挑戦する価値があるんです」。


がんを患いながらの8000m峰登頂

小西氏が初めて8000m峰の無酸素登頂に成功したシシャパンマへの挑戦の際は、精神的に大きなダメージを与えられたという。若干20歳の青年だった小西氏は、チーム最年少だったこともあり、雑用に追われ、さらには、降雪・烈風の中で先頭を切って雪を踏み固めながら道を作る役割を担わされた。そんななかでのシシャパンマ登頂は、自身初の8000m峰ながらも、決して素直に喜べるものではなかったという。自分の命を守ることに精一杯の世界だからこそ、生々しいほど人間の本性が見えてしまったのだろう。

小西氏は、その後、8000m峰からはしばらく離れ、インドでヨガの修行をしたり、マッキンリー(6194m)やハン・テングリ(7010m)といった世界の名峰の登頂を果たす。

そして20代も後半になり、再び8000m峰への挑戦をうかがっていた矢先のこと。小西氏にある転機が訪れる。甲状腺にがんが見つかったのだ。まだ27歳のときだった。がんの摘出手術には成功したのだが、その半年後には首のリンパへの転移が見つかる。このときも手術は成功するが、さらにその2年後には再び首のリンパ節にがんが見つかった。

最初にがんを宣告されてから、たった3年強の間に3度の手術を行い、入退院を繰り返しながら、すべてのがんを克服した。これだけでも壮絶な闘病生活のはずだが、驚くべきことに、入院中も毎日スクワットなどのトレーニングを行い、がん患者でありながら8000m峰のブロードピーク、さらにはガッシャーブルムⅡ峰への無酸素登頂に成功するという、人類でもほかに例のない偉業を成し遂げたのだ。

ローツェ(8516m)登頂を目指す小西さん。 後方には世界最高峰エべレスト(8848m)がそびえ立つ。本人提供=写真


小西氏が説く心のチカラ

当たり前だが、闘病中のがん患者を簡単に受け入れてくれるほど、ヒマラヤ山脈の8000m峰は甘い世界のはずがない。だが、小西氏は、そんな常識はいっさい意に介さず。

「このまま病院で死ぬなんて、まっぴらごめんだという想いがあったから、入院・手術・退院の合間にヒマラヤ山脈の8000m峰に4回挑戦し、そのうち2回無酸素登頂に成功できた。このとき、人間の心の力は恐ろしいなと思いました。心の力によって、ほとんどのことが可能になるんじゃないかと思うくらいにね」。

厳しいトレーニングを積んで数々の山に挑んできたベテラン登山家たちが、うずくまって歩けなくなってしまうほどの環境。自然界から「限界」を突きつけれられる場所で、がんと闘病中の人間がそこにいることが、どれだけ大変なことか。我々の想像を絶する苦しみがあったのは間違いないだろう。

だが、そんな苦しい登山中でも、突然、体の奥底からパワーが湧いてくるときがあったという。頂上が手の届くところに見えたときだ。それまで疲労困憊で身動きすら取れなかったものでも、山の頂上が視界に入った途端に、心の持ちようが変わり、まるで生まれ変わったかのように力が湧いてくるそうだ。心が、限界を超えた肉体を頂上まで引き上げてくれるという感覚なのかもしれない。それほど、心のチカラは強いものなのだ。

ブロードピーク(8051m)への無酸素登頂を果たし、 仲間と連絡を取り合う。本人提供=写真


再び訪れた試練

小西氏は、数年前に、数々の挑戦を繰り返してきた高所登山からは引退。現在はこれまでの経験を活かして、全国の企業経営者の方々に心の鍛え方を指南する私塾「小西塾」を運営している。

刻一刻と変化する天候、目まぐるしく変わる登山ルートの状況、チームやパートナーたちの健康状態や心理状態など、さまざまな要素を考慮しながら、命がけの判断を繰り返してきた。生死をかけて頂上へアタックする際は、常に大きなリスクと隣り合わせ。山頂を踏んで無事に生還できれば英雄扱いされるが、失敗すれば「無謀な挑戦だった」と非難される。そのような究極の決断と行動を迫られるなかで、成功と失敗をわけてきたものは何かと聞いてみると、拍子抜けするほど、予想通りの、しかし実践するのはとてつもなく難しいと思われる答えがかえってきた。

本人提供=写真

「本番ではさまざまなアクシデントが起きます。なぜ乗り越えられるのか。それは極端に言えば準備がすべてなんです。成功すべくして成功し、失敗すべくして失敗するってわけです」。

限界を乗り越えるために必要なものが「心のチカラ」だとしたら、その準備に100%の力を注ぐのに必要なものも「心のチカラ」なのかもしれない。

実は昨年、小西氏は再び大きな試練に直面していた。なんと20数年ぶりにまたもやがんが見つかったのだ。昨年7月に摘出手術を終え、現在は毎月1回の定期検査を受けている。だが、これまでの人生と同様、小西氏が守りに入るような様子は一切ない。

「高所登山をやめてからは、もう生命の危険と直面することはないと思っていた矢先に、何十年ぶりかにまたがんが出てきた。お天道様が甘やかしてくれないんですよ。それまでは、たったひとつの生命をかけてでも世界一の登山家になりたいと思って生きてきた。実際、その過程で死んだら仕方がないと腹を括ってやってきて、多くの仲間たちが死んでいきました。でも、おかげで私はなんとか生き残ることができた。死はもちろん怖い。なぜ怖いかと言ったら、未知なものだからという側面と、やりたいことができなくなるという側面、この2点だけなんですよ。私にはまだやりたいことがある」。

ひとりでも多くの人のために役立つ人生を。鋭い視線、そしてその淡々とした語り口の端々から、壮絶な人生を送ってきた者だけが持つ「心のチカラ」が感じられたような気がした。


こにしひろふみ●1962年、金沢市生まれ。15歳で本格的に登山を始める。1982年のシシャパンマを皮切りに、1997年には,日本人最多となる「8000m峰6座無酸素登頂」を記録。現在は経営者向けの私塾「小西塾」を主宰するなど高所登山で得た経験を多くの人に伝える活動を行なっている。

◆主な著書
『生き残る技術』/講談社+α新書
『勝ち残る!『腹力』トレーニング』/講談社+α新書
『無酸素社会を生き抜く』/日本経済新聞出版社
『生き残った人の7つの習慣』/山と渓谷社

瀬川泰祐=取材・文・写真

# 37.5歳の人生スナップ# 小西浩文# 登山家
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