37.5歳の人生スナップ Vol.44
2019.02.05
LIFE STYLE

「負けは負け、ムダはムダ」。43歳芸人・山田ルイ53世の潔い生き方【後編】

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山田ルイ53世

「僕は引きこもっていた6年間を完全に無駄と思っているので、常に年齢から6を引いた歳だと心の中でサバ読んで生きています。つまり、いま37歳ってことで連載タイトルにピッタリあてはまる計算ですね(笑)」。

ひきこもっていた20歳までの6年間を山田ルイ53世はポジティブに捉えようとはせず、無駄だった、と言い切る。そこにはある種の諦観があった。

「あの6年間があったからこそ今の自分がある……とは思わない。ムダはムダ。負けは負け。それ以上でもそれ以下でもないし、それでいい。『人生に無駄なことなんてない!』という考え方は、裏を返せば無駄があってはいけないということ。そんな風潮自体がしんどいというか、人を追い詰めることもあると思う」。

そんな「無駄だった」ひきこもり期間。脱出できたきっかけはなんだったのか?

「テレビで成人式のニュースを見たときですね。それまでは『人生取り返せる、まだ大丈夫』と自分を誤魔化してた。でも同級生が “大人”になっていく一方で、自分の時間は14歳から止まったまま。さすがに焦りました」。

艶やかな晴れ着をまとった同級生たちの姿は、失った時間とこれからの未来という現実を突きつけた。一念発起した彼は、大検(高卒認定試験)を取得。さらにセンター試験を受け、地方の国立大学に入学を果たし、ひきこもりだった自分に別れを告げた。


大学入学後、お笑い芸人を目指して上京

人生が動き出すのは、いつもちょっとした勢いひとつだったりする。長年の悩みの種だった強迫神経症のような症状も彼は自力で治したという。

「別に何か読んだ訳でも教えてもらったわけでもないんだけど、自分が『やらなきゃやらなきゃ』と思っていたルーティーンたちを全部こう指でつくった輪っかの中に詰めて、それをフッと息で吹き飛ばすって言う……(笑)。人って書いて飲み込むみたいなものかな」。

独自の治療法によって長年縛られ続けていたルーティーンから解放され、大学にも入学した。さらに大学での出会いが、お笑い芸人への道を開くこととなる。

「大学で仲良くなった先輩に誘われて、伝手を頼って女子短大の学祭で漫才をやることになって……それがウケたことで勘違いしちゃった。正直、絶対に芸人として成功してやるという熱い思いで始めたわけではなくて人生でほかに特にやることがなかったんです。自分の理想の人生からはもうすでに遠く離れ過ぎていて、人生が余ってしまったな……という感覚がずっとあったので」。

芸人になるという決意も彼からすれば、手持ち無沙汰になってしまった人生の番外編。神童だった子供時代には、予想だにしない選択肢だった。

「もう自分にはそれぐらいしかないな、ただただ流されたという感じ」。

大学を中退し、東京のお笑い養成所に通うために上京したのは21歳の時だ。引きこもり終了からわずか1年……人生はめまぐるしく変化していたが、男爵自身の生活が向上したわけではなかった。

「上京して大塚の家賃1万5000円の四畳半アパートで一人暮らしをしていたんですけど、お金がなくて電車に乗れないから養成所のある、赤坂まで歩いて通っていて……往復4時間ぐらいだったかな? 大家さんが飼ってたザリガニを茹でて食べたりもした。毎日胸元に『ARMY』って書かれた同じTシャツを着てたから、養成所でのあだ名はアーミーでした(笑)」。

若者は大抵“自分だけはすぐ売れる”という幻想を抱き、お笑いの世界に入ってくる、と彼は言う。しかし現実は甘くない。彼自身も芸人としての芽が出ないまま300万円以上の借金を抱え、日払いのバイトで食いつなぐ生活を余儀なくされた。

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苦節10年……「一発屋芸人」誕生

現在の相方であるひぐち君と出会い、コンビを結成したのは1999年。今から20年前のことだ。

山田ルイ53世

「正直、ひぐち君に笑いのセンスとか、何かピンとくるものを感じたことはない(笑)。向こうもそうかもしれませんが。でもそれまでコンビを組んでは解散っていうのを繰り返していたので、とにかく継続すること、解散しないことが大事だと思ってた」。

そんな継続が実り、「ルネッサーンス!」の貴族ネタでブレイクを果たしたのは、結成からおよそ10年後の33歳の頃。正統派の漫才で結果を出せず、鳴かず飛ばずの日々に終わりを告げるための苦渋の決断が、“コスプレキャラ芸人”だったという。

「2004年に現在の貴族のお漫才っていうスタイルを作って、じわじわテレビとかに出させてもらえるようになりました。『レッドカーペット』のお陰でドカンと仕事が増えたのが2008年ぐらいですね」。

それからはご存知の通り、一躍、売れっ子芸人に。あれから10年。当時の勢いは落ち着き一発屋芸人という不名誉な肩書きも得たが、40代に突入してからは物書きとして評価されるようになった。そのキッカケには、“無駄だった”と語る自身のひきこもり経験があった。

「新聞の企画で、受験生にエールを送るというコーナーのインタビューを受けたとき、自分のひきこもり時代に少し触れたんです。それを読んだ編集者に、ひきこもりについて書いてみないかと声をかけてもらえた。人生、なにがキッカケになるかわからないですよね。そこから徐々に書く仕事が増えていきました」。

ヒキコモリ漂流記
『ヒキコモリ漂流記』。突然引きこもりとなり、苦悩、葛藤の末、脱出する半生を描いている。

2015年、40歳で初めての著作である自叙伝を発表。そこからは年に1冊ペースで著作を発表している。すっかり売れっ子作家だ。シニカルな目線に富んだワードセンスの数々。オチまで綺麗に着地していく文章は読んでいて清々しく、まるでひとつの漫才を見せられているかのように構成が巧みなものが多い。40代にして物書きとして再評価されていることを彼自身はどう感じているのだろうか。

「自分なんて作家でもなんでもないのに、恐れ多いというか……全然です。ただ、書き始めたことでこうやって褒めてもらう機会が増えたことは純粋にうれしい。髭男爵のネタを書いているのは僕なので、ネタの構成を考えるのと文章を書くっていうのは少し通じるところがあるのかも。それは良かったのかなと思います」。

最近は新聞やウェブでの連載等、書く仕事も増えつつある。現在は “お笑い芸人”と“物書き”、どちらに比重をおいているのだろうか。

「執筆とお笑いをわけて考えたことはないんです。僕にとって文章を書くこともお笑いの表現のひとつ。だから書いたものを読んで“笑った”と言ってもらえるとやったーと思います。芸人として」。

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人生の目標は「娘が成人するまで飯を食わせる」こと

プライベートでは36歳で結婚。娘も生まれて順風満帆……それでも彼は自身の人生を冒頭のように「負け」と語る。

「結局、負けちゃダメだという思いが、人生の無駄や失敗を許さない空気を作っている。無駄や失敗にまみれた不本意な毎日こそ、人生を形作っているものだと思うし、それを無理に肯定も否定もしない人間でありたい」。

人生を振り返ると、明らかに「失敗」だった。そう断言することはかなり勇気のいることだ。失敗を認めるのは怖い。人生の巻き戻しやリセットはできないことがわかっているだけに、なおさら私たちは自分の選択や決意を無理やりにでも肯定し、失敗していない、と自分自身を慰めないといけないような気持ちになってしまう。

しかし彼は、負けや失敗があったっていいじゃないか、と考える。一発屋芸人という称号を背負わされ、ときにプライドが傷付けられることもある。それでも飯は食えているし、守らなければいけないものもある。

「娘が生まれたことは僕が人生で思い描いたことが、初めてそのまま100点で実現できた瞬間でした。今の目標は、娘が成人するまで不自由せずに飯が食えれば……それぐらいしか思いつかないですね」。

家族のために働いて、お金を稼ぐこと。芸人としてはつましい目標だが、それがリアルだった。

「とりあえず生きていくというか。僕、人間を主役か脇役でわけるクセがあったと言ったじゃないですか。人生40年も生きた今なら自分がエキストラ側の人間だったってわかる。思っていた自分には全然なれなかった。でもそれでも、たまに褒めてくれる人がいたり、娘の成長が見れたり……それでいい」。

芸人になったことを後悔したことは? そうたずねると、まっすぐ「それはない」と答える。無駄も負けも重ねた人生の折り返し地点。大事にしたいと思えたのは、日常の中に散らばるささやかで確かな輝きだった。

【関連書籍】
『一発屋芸人の不本意な日常』(著:山田ルイ53世/朝日新聞出版)

一発屋芸人の不本意な日常

ある日は地方営業でワイングラスに石を投げられ、ある日はサインをネットで売られる。自ら「負け人生」とかたる日々をコミカルにつづった切なくも笑える渾身のエッセー。
https://publications.asahi.com/ecs/detail/?item_id=20661

冨田千晴=撮影 藤野ゆり(清談社)=取材・文

# 37.5歳の人生スナップ# 山田ルイ53世# 文筆家# 芸人
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