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苦節10年……「一発屋芸人」誕生

現在の相方であるひぐち君と出会い、コンビを結成したのは1999年。今から20年前のことだ。
山田ルイ53世
「正直、ひぐち君に笑いのセンスとか、何かピンとくるものを感じたことはない(笑)。向こうもそうかもしれませんが。でもそれまでコンビを組んでは解散っていうのを繰り返していたので、とにかく継続すること、解散しないことが大事だと思ってた」。
そんな継続が実り、「ルネッサーンス!」の貴族ネタでブレイクを果たしたのは、結成からおよそ10年後の33歳の頃。正統派の漫才で結果を出せず、鳴かず飛ばずの日々に終わりを告げるための苦渋の決断が、“コスプレキャラ芸人”だったという。
「2004年に現在の貴族のお漫才っていうスタイルを作って、じわじわテレビとかに出させてもらえるようになりました。『レッドカーペット』のお陰でドカンと仕事が増えたのが2008年ぐらいですね」。
それからはご存知の通り、一躍、売れっ子芸人に。あれから10年。当時の勢いは落ち着き一発屋芸人という不名誉な肩書きも得たが、40代に突入してからは物書きとして評価されるようになった。そのキッカケには、“無駄だった”と語る自身のひきこもり経験があった。
「新聞の企画で、受験生にエールを送るというコーナーのインタビューを受けたとき、自分のひきこもり時代に少し触れたんです。それを読んだ編集者に、ひきこもりについて書いてみないかと声をかけてもらえた。人生、なにがキッカケになるかわからないですよね。そこから徐々に書く仕事が増えていきました」。
ヒキコモリ漂流記
『ヒキコモリ漂流記』。突然引きこもりとなり、苦悩、葛藤の末、脱出する半生を描いている。
2015年、40歳で初めての著作である自叙伝を発表。そこからは年に1冊ペースで著作を発表している。すっかり売れっ子作家だ。シニカルな目線に富んだワードセンスの数々。オチまで綺麗に着地していく文章は読んでいて清々しく、まるでひとつの漫才を見せられているかのように構成が巧みなものが多い。40代にして物書きとして再評価されていることを彼自身はどう感じているのだろうか。
「自分なんて作家でもなんでもないのに、恐れ多いというか……全然です。ただ、書き始めたことでこうやって褒めてもらう機会が増えたことは純粋にうれしい。髭男爵のネタを書いているのは僕なので、ネタの構成を考えるのと文章を書くっていうのは少し通じるところがあるのかも。それは良かったのかなと思います」。
最近は新聞やウェブでの連載等、書く仕事も増えつつある。現在は “お笑い芸人”と“物書き”、どちらに比重をおいているのだろうか。
「執筆とお笑いをわけて考えたことはないんです。僕にとって文章を書くこともお笑いの表現のひとつ。だから書いたものを読んで“笑った”と言ってもらえるとやったーと思います。芸人として」。


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