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2018.08.18

ライフ

人気漫画家・三田紀房。「プロになること」が漫画を描く理由ではなかった


OCEANS’s PEOPLE ―第二の人生を歩む男たち
人生の道筋は1本ではない。志半ばで挫折したり、やりたいことを見つけたり。これまで歩んできた仕事を捨て、新たな活路を見いだした男たちの、志と背景、努力と苦悩の物語に耳を傾けよう。三田紀房は大学卒業後、百貨店勤務を経て経験ゼロから30歳で漫画家デビューを果たした。そして当代きっての売れっ子の一人に。その人生、いったい何があったのか。
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西武百貨店はのんびりした職場だった

三流高校の落ちこぼれ生徒が東大を目指すことになる『ドラゴン桜』にせよ、そのスピンオフ的な立ち位置の、就職をテーマにした『エンゼルバンク』にせよ、三田さんの作品は、自分の現在地を改めて見直して、将来をきちんと設計していこうという気概にあふれた物が目立つ。
当の三田さん自身が明治大学から西武百貨店に入ったのは「就職課が西武に行けって言ったから(笑)」だという。
「まあ部活で剣道はやっていたんですが、大学時代はなんかぼんやりしていたんですね(笑)。剣道以外はバイトばっかり。周囲は就職活動でざわざわしていましたけど、僕自身は、まあなんとかなるだろう、みたいな感じだったんです(笑)。それで大学4年のお盆過ぎにようやく就職課に行くと、“今ごろ来てどういうつもりだ”って言われました。そのタイミングで行けそうなところが流通かアパレルで。イトーヨーカドーか西武に行けって言われたので、とりあえず西武に行ったんです」。
時に1980年。「じぶん、再発見」というキャッチコピーを糸井重里が生み出した年。翌年には「不思議、大好き」、1982年にはウディ・アレンをキャスティングした「おいしい生活」の広告が打ち出される。三田さんが入社したのは、まさに西武百貨店イケイケの時代だった。
仕事は池袋店の紳士服イージーオーダー売り場。店頭に出るというよりはおもに管理で、毎週、ホテルの宴会場や流通センターなどで行われる店外催事に立ち会い「レジの番みたいなこと」を担当していたという。
「なので、仕事自体はそんなに楽しくはなかったですよ。紳士服のイージーオーダーなんて、わんさかわんさかお客さんが来るような売り場じゃないですしね。実際に売るのはメーカーさんで、僕自身は、誰か社員が立ち会わないといけないから現場に行っていたようなもの。正直、ブラブラしていました。当時、西武百貨店は多店舗化・拡大路線をとっていて、社内に活気はあったし、悪い時代ではなかったです。仕事熱心ではなかったけれどノープレッシャー・ノンストレスで(笑)」。
個人経営の店舗みたいに躍起になって働かなくても毎月定期収入は得られていた。そういう意味では、学生時代の希望通りの身分になることができたのだが、いかんせん面白くなかった。
「当時確か四大卒で150人、短大入れると300人、高卒がさらに500人、同期入社が800人ぐらいいる中で、結構みんな簡単に会社を辞めてたんですよ。入社3カ月ぐらいで“なんか違う”なんて言って(笑)。僕も正直“この仕事を一生やるのかなあ”っていう気持ちだったんです」。
岩手で洋服店を経営するお父さんが病に倒れたという知らせが届いたのはそんなタイミング。帰ってきて店を手伝えという話だった。


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