37.5歳の人生スナップ Vol.7
2018.06.25
LIFE STYLE

逃げたからこそ得られた生活。大自然と笑顔に囲まれて暮らす建築士

連載「37.5歳の人生スナップ」
もうすぐ人生の折り返し地点、自分なりに踠いて生き抜いてきた。しかし、このままでいいのかと立ち止まりたくなることもある。この連載は、ユニークなライフスタイルを選んだ、男たちを描くルポルタージュ。鬱屈した思いを抱えているなら、彼らの生活・考えを覗いてみてほしい。生き方のヒントが見つかるはずだ。

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木のぬくもりが感じられる家での理想の暮らし

東京からアクアラインを通って、車で2時間。目の前の景色が一面の緑に移り変わっていく。車1台がなんとか通れる細い小道を走り抜けると、四方を木々に囲まれた木造の家が現れた。鳥のさえずりが響きわたり、蝶や虫が自由に庭を飛び交っている。

平井将司さん(40歳)は一級建築士だ。千葉県南部、房総半島のほぼ中央に位置する君津市で、憧れだったという田舎暮らしと仕事を両立させている。

前のオーナーがセルフビルドで造ったという唯一無二の家は、木のぬくもりが感じられ、そこへさらに平井さん自身が手を加えることで、妻と息子、家族3人で暮らすための理想の家が完成した。

「床を貼ったり、ウッドデッキ作ったり、薪棚(薪を収納しておく収納棚)もたくさん作ったなあ……。ここに来て以降、常に何かを作っています。庭の家庭菜園も妻のおかげで充実しているし、田んぼも借りているので、ナスやキュウリ、トマトとか、普段食べるための野菜には困りません」。

ずっと東京で生活していた平井さんが縁もゆかりもない君津市への移住を決めたのは、「直感」だったという。そこにはいったい、どんなストーリーがあったのだろう。

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組織の価値観にとらわれてしまうおそろしさ

高校卒業後、飲食店や不動産業など、さまざまな仕事を経験して実感したのは、自分はひとりでコツコツやるタイプだということ。そこで、24歳のときに建築の専門学校に入学した。

「建築士には、部屋にこもって作業するイメージがあったので、自分に向いているかなって。実際はそんなことばかりではないんですけどね(笑)」。

飲食業時代に出会った妻とは、このころに結婚した。学び直しと結婚生活を同時に始めたのだから、その暮らしは「安定している」とはいえないものだった。

「昼間はアルバイト、夜は専門学校で勉強する日々を2年間続けました。卒業後もすぐには就職できなくて……。27歳のとき、なんと建設会社の設計部にもぐり込むことができたんです」。

しかし、建設会社の仕事は「忙殺」という言葉がぴったりだったという。勤務地である半蔵門から離れた場所に住んでいたため、朝5時に家を出て、深夜1時に帰宅する毎日。さすがに体力の限界を感じ、30歳のときに会社に通いやすい新宿御苑の中古マンションを購入した。

住む場所を変えたことで、生活は安定した。そんなとき、平井さんの意識を大きく変える出来事が起きた。

「2011年、東日本大震災が起こったとき、社内にいた僕は、命の危険を感じて逃げようとしました。ところが、僕以外は誰も逃げようとしない。机から動かないんです。それを見て『自分も逃げないほうがいいのかな?』と立ち止まってしまった。でも、後で振り返ったときに、組織の価値観にとらわれて個人の決断ができなくなるって、すごく怖いことだなと感じたんです」。

組織に所属することで正常な判断ができなくなるくらいなら、ひとりで仕事をしよう。独立を決意した平井さんは会社を辞め、知り合いのオフィスの一角で仲間とともに建築事務所を始めた。34歳の再スタートだった。

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オルタナティブに生きるパーマカルチャーの人々

雑誌で「パーマカルチャー」の特集を目にしたのもそのころだ。

パーマカルチャーの解釈は人によって異なるが、「農的暮らしの永久デザイン」という日本語訳が一般的とされる。基本的には、人が自然に手を加えることで、自然環境を含めて豊かにしていくという考え方で、化学肥料を使わず自然の力をそのまま取り入れていくことを理想とする。

平井さんも、もともと自給自足への憧れはあったが、パーマカルチャーというライフスタイルを実践する人の存在を知ったのは、そのときが初めて。型にとらわれずにオルタナティブに生き、パーマカルチャーを実践している人々の姿がまぶしかったという。

「母の実家が秋田県にあり、山でも海でもすぐ行けるような場所だったので、小学生のころは夏休みをずっとそこで過ごしていました。その思い出が、どこか原風景のように心の奥底に残っていたんでしょうね」。

震災から1年後の2012年、平井さんは妻とともに神奈川県で開かれていた「パーマカルチャーセンター」に通い始める。座学や実習でパーマカルチャーの理念を学ぶことで、さらにその憧れを強くした。

「たとえば、いま僕が暮らすこの家にいずれ住まなくなっても、最後には家が朽ちてもそのまま森に帰るような、自然にとってマイナスにならない、循環性のある暮らし方がしたいと思いました。だから、この家では、井戸水や雨水を使用したり、野菜を栽培したりしています。君津は水が豊富でおいしい。それもここで暮らそうと思った理由のひとつになりました」。

庭の一角にある井戸水は、驚くほど澄んでいる
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東京生活との違いは100%消費者ではなくなったこと

東京を離れる決断をしたのは37歳のときだ。条件にベストマッチする現在の家をネットで見つけるまでに、そう時間はかからなかった。新宿御苑のマンションを売り、木々に囲まれた君津市での田舎暮らしが始まった。

友人のイラストレーターせきねゆきさんに描いてもらったという平井さんご家族。親子3人の姿がなんとも微笑ましい。額縁はこれから製作予定だ。

印象的だったのは、平井さんが東京の生活を振り返るとき、「逃げたくてたまらなかった」と、「逃げる」というフレーズを繰り返したことだ。そこにあるのは、東京での生活で感じたぬぐい去ることのできない違和感だった。

「僕は埼玉県出身で、東京の生活に憧れていた時期もありました。でも、住んでみると、どうしてもピンとこない。東京は嫌いではないけれど、結局お金を使わないと何もできない。そのジレンマが常にあった気がします」。

逃げると聞くと、ネガティブなイメージを持つかもしれない。しかし、平井さんは「逃げたっていいじゃないですか」と笑顔で語りかける。

「僕は仕事も住まいも転々としてきましたが、実際に働いたり住んでみないと向き不向きはわからない。だから心や体を壊すくらいなら、別に逃げてもいいと思うんです」。

だからといって、組織に属することや東京の生活を否定するわけではない。人それぞれ、向き不向きもある。「これが正解だ」とは一概にはいえないのではないか? それが平井さんの得たひとつの結論だ。

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「買う」ではなく「どうやって作ろう」に変わった

納屋には様々な工具が揃う。

君津へ移住したことで、平井さんは何を得たのか。大きく変わったのは、「100%消費者ではなくなったこと」だという。

「東京にいたころは、欲しいものがあれば、まず『買う』という選択肢を取っていました。しかし、ここでは、まず『どうやって作ろうかな』『どこまで作れるかな』というところから始まるんです」。

平井さんは今、土と藁を混ぜて作る日干しレンガを積み上げ、薪ストーブの周囲をデザインしようと計画しているそうだ。それを少年のように、楽しそうに話すのである。

薪ストーブのあるリビング。
取材時に完成していた日干しレンガは100個。最終的に200個まで作るという。

とはいえ、移住生活には苦労もあるに違いない。たとえば、20代から一緒に生活してきた妻は、大都会の新宿から君津へ移住することに抵抗はなかったのか。そう尋ねると、奥さんは、

「彼はすごく働き者なんですが、飽きやすいんです(笑)。じつは、新宿の家を買うまでも何度も引っ越している。越して2、3年経つと、もう『次はどこに住もうかな』って考えている。私はひとつの場所に定住したい派なので、『また引っ越すの』って。でも、ここへ来てからは飽きを感じるヒマもないみたい。これでやっとひとつの場所に定住できると、ホッとしています(笑)」(平井さんの妻・千明さん)。

と苦笑しながら答えた。

妻・千明さんと、息子・大地くん。とびきりの笑顔を見せてくれた。

ここでは仕事以外にも、地元の消防団の訓練、田んぼの作業、家庭菜園、集落の草刈り、DIY……と、飽きるヒマもないほどやりたいことがある。そう真っ直ぐに言える夫婦の姿が素直にうらやましい。

平井さんの「作りたいものリスト」は現在、膨大な数になっている。「製作するための工具代や材料費が大変(笑)。全部作り終えるのは、20年後かもしれません」と笑う。

《逃げ》た先で見つけた、仕事と暮らし。そのどちらも、今の平井さんにとってかけがえのないものとなっている。


藤野ゆり(清談社)=取材・文

# 37.5歳の人生スナップ# 移住
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