看板娘という名の愉悦 Vol.10
好きな酒を置いている。食事がことごとく美味しい。雰囲気が良くて落ち着く。行きつけの飲み屋を決める理由はさまざま。しかし、なかには店で働く「看板娘」目当てに通い詰めるパターンもある。もともと、当連載は酒を通して人を探求するドキュメンタリー。店主のセンスも色濃く反映される「看板娘」は、探求対象としてピッタリかもしれない。
上野駅からアメ横をずんずん進むと御徒町駅に出る。
駅からほど近い居酒屋で働く看板娘をご紹介したい。店名は「炭火焼 魚・肉食堂 こがね屋 御徒町」。
さて、看板娘・我那覇ひろのさん(29歳)のご登場。ビールと日本酒が好きだというので、まずはサッポロ「赤星」を注文した。
彼女の名刺には、ズバリ「看板」という役職がプリントされている。店公認の看板娘なのだ。
我那覇という苗字からわかるように、彼女は沖縄出身。
「那覇の首里なんですよ。そこそこ都会なので『沖縄のどこ?』って聞かれて那覇と答えるとがっかりされます」
本業は役者で、この店では週に4日ほど働いている。
「店主の荒舩さん、私はフネさんって呼んでるんだけど、毎回舞台を観に来てくれます」
常連客からは「のんの」「がーちゃん」などと呼ばれて愛されている我那覇さんだが、ずっと続けてきた接客業に飽きた時期もあったそうだ。
「でも、ここの前に働いていた居酒屋の店長に『接客は自由でいいんだよ』と言われて。『ああ、そうなんだ』と目からウロコでした。それ以来、自分のスタイルで働くようになって接客業の本当の楽しさを知ったんです」
以前は言葉遣いにも気をつけていたが、いまは常連客とタメ口で話す。そうすることで距離が縮まるからだ。
この店は日本酒にもこだわっており、店主の荒舩さんが季節ごとにさまざまな蔵から取り寄せている。我那覇さんはここで日本酒の美味しさに開眼したそうだ。
そういうことなら、次は日本酒にしましょう。のんのさん、オススメの一杯を。「甘口、辛口とかお好みある?」。いえ、完全にお任せで。「じゃあ、間違いなく美味いやつにするね」。
タメ口だ。なんだかうれしいぞ。
「甲子 春酒香んばし」。千葉県の飯沼本家という蔵元の純米大吟醸だ。
「この蔵の日本酒はけっこう酸味が強いんだけど、これは抑え気味。フルーティーでまさに桜っぽい味」と解説も立派なものである。「和らぎも置いときます」。なるほど、日本酒とともに飲む水を「和らぎ」というのか。
「ここのお店のお酒は何でも美味しいんだけど、唯一オススメできないのが『こがね屋サワー』っていう社長イチ押しのオリジナルドリンク。だって、大根下ろし汁が入ってるんですよ。店名がついてるのに美味しくないからしょうがない(笑)」
こちらも、好感が持てる正直な接客スタイルだ。以前なら決して聞けなかったセリフだろう。
ちなみに、我那覇さんは若干天然気味のところがあり、通りがかりに手を挙げて注文をしようとしたらハイタッチをキメてきた。
「そういえば、店先のチューリップかわいいですね」と言うと、「あれはフネさんが店の真ん前の花屋で季節ごとに買ってくるんです」。
へええ、そんなフネさんのオススメも飲んでおこう。
「甘口、辛口のお好みはありますか?」。我那覇さんと同じトークだ。いえ、完全にお任せで。
佐賀県の「基峰鶴」。女性の杜氏が造っているという。いざ、飲もうとしたところで我那覇さんが言う。「ちょっと足りないよ、フネさん。彼は視力が悪いんだよね」。
気づけば店内は満席。そろそろ、お会計をしよう。恒例の直筆メッセージを頼むと、迷うことなく5秒で書き上げた。
【取材協力】
炭火焼 魚・肉食堂 こがね屋 御徒町
住所:東京都台東区上野3-21-10 1F
電話番号:03-3833-2066取材・文=石原たきび