FUN! the TOKYO 2020 Vol.29
2019.09.23
LEISURE

オリンピックで人生が変わった男が交わした「次はプロとして会おう」の約束

FUN! the TOKYO 2020 
いよいよ来年に迫った東京オリンピック・パラリンピック。何かと “遊びざかり”な37.5歳は、 この一大イベントを思い切り楽しむべき。 競技を観るのもするのも、主な拠点となる東京を遊ぶのも、 存分に。2020年の東京を……Let’s have FUN!

フリーランスのフォトグラファーとして雑誌など各種メディアで活躍する吉澤健太さん。

以前に「カメラ初心者のオトーチャンが選ぶべきベストカメラ」でもお話を聞いた吉澤さんが写真の道に進んだきっかけは、1998年の長野オリンピックだったという。

吉澤健太(よしざわけんた)●1975年生まれ、長野県出身。フォトグラファーとして雑誌を中心に幅広い分野で活躍中。

当時、大学卒業直前で就職も決まっていた吉澤さん。オリンピックがいかに人生を変えたのだろうか。

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地元開催のオリンピック
何か携わりたいとアルバイトへ

1998年の長野オリンピック当時、吉澤健太さんは大学4年生。広告代理店に就職も決まり、卒業してから就職までの春休みは、郷里である長野市の実家でのんびり過ごそうと決めていた。そんなとき、親が「じゃあ春休みはアルバイトでもしたら?」と持ってきたのが長野オリンピックのアルバイト募集の告知。

「地元開催のオリンピック。せっかくなので生で見てみたい、何かに携わってみたい、くらいの気持ちはあったんですよ」というわけで、面接を受けることに。軽いといえば軽い気持ちだったが、面接を受けるとあっさり合格。アルバイト先は世界最大の写真用品メーカー「コダック」のプレスセンターだった。

プレスセンターでアルバイトをしていた際のパス。

「大学が中国語学科だったので、外国語がちょっと話せたんです。好きで海外へ長期旅行もしていたし、そういった経歴が買われたのかもしれません。一応、写真部にも入っていたし……」。

コダックのプレスセンターの仕事は、撮影された大量のフィルムを素早く現像、プリントするなど、世界各国から訪れた通信社や新聞社のフォトグラファーの活動をサポートすること。写真の知識があることは当然、強みになる。

ただ、この話を聞くとオリンピックのアルバイトと現在の仕事が結びつくのはごく自然のようにも感じるが……。

「いやいや、そのときは就職が決まっていたようにフォトグラファーで生きていこうなんて考えていなかったんです。写真部だって入部したのは4年生のときだし(笑)」。

コダックの受付でスタッフや各国のフォトグラファーと。日常ではできないさまざまな出会いがあった。

写真は、亡くなった祖父の形見としてカメラをもらったことをきっかけに始めたが、あくまで趣味程度。写真部に入部したのも、プリントの方法を習い、機材を使わせてほしかったのが理由だった。

「実家が看板屋で、子供の頃から物づくりは身近にあったから、ビジュアルやクリエイティブなことは好きだったんです」。

ちなみに広告代理店に就職したのも、何かクリエイティブな仕事に関われるかも、という淡い期待を持っていたから。だから、軽い気持ちで応募したオリンピックアルバイトだったが、仕事は刺激的なものだった。

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一流フォトグラファーの
美しい写真に驚く日々

「仕事は基本的にはプレスセンターの受付。ネガやポジのフィルムを各社に提供したり、預かったフィルムを現像、プリントして渡す。大きなトレーラーに現像用の機械などがズラーッと並んでいましたね」。

ゆえに吉澤さんは、世界の第一線で活躍するフォトグラファーたちと直接やりとりをする機会に恵まれた。

「フォトグラファーたちは気に入った写真があると、よく自分用にもプリントしていたのですが、そのスポーツ写真が本当にすごかった」。

例えばフィギュアスケートの目に見えないような速さで決めたジャンプやアルペンスキーの素早いターンの瞬間をしっかりと美しくとらえた写真。どれも技術と芸術が一体となった素晴らしい作品だった。

「フィギュアなんて照明が暗いケースもあるし、外は天候が悪いときもあるうえに、選手が撮影のために止まってくれるわけでもない。撮影エリアは離れているし、なぜこんなに鮮明に美しく撮れるんだろう、と驚きの連続で」。

現在のデジタルカメラと違い、みなフィルムカメラ。撮影した写真をすぐチェックすることはできないうえに、撮影枚数にも限りがある。長年の経験が生み出すクオリティに舌を巻いた。

「感動して撮影方法を質問するなど言葉を交わすと、写真をプレゼントしてくることもあって。うれしかったですね」。

世界中から集まったさまざまなスポンサーや協賛企業、メディアなどのスタッフ同士で、各社が作った記念バッジを交換し合う習慣があった。

1998年といえばデジタルカメラが出始めた頃だが、クオリティの高い写真はまだフィルムカメラが圧勝という時代。その後、デジタルカメラの性能が急速に向上し、猛スピードで普及していくことを考えると、長野五輪は、オリンピックの報道写真という面では、フィルムとデジタルの端境期の大会、あるいはフィルムがメインだった最後の大会ともいえる。

スポーツの報道写真がほぼ100%デジタルカメラという現在は、撮影した写真をフォトグラファー自身がパソコンでチェック、セレクト、レタッチなどをして仕上げ、社に送ることがほとんどだろう。アルバイトが受付でフォトグラファーの写真を目にし、撮影した本人とコミュニケーションがとれる。それはフィルム時代だからこそ生まれるやりとり。吉澤さんは幸運だったのかもしれない。

「時間に余裕があると、自分が撮った写真をフォトグラファーやコダックのスタッフに見てもらったりして。“全然ダメ”と酷評されることもあったけど、勉強になったし励みにもなりました」。

当時のコダックプレスセンターの外国人上司と。日本とは違う関係性や人との距離感が、新鮮に映る。写真の日付設定が94年なのはご愛嬌。
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会社を辞めて写真の道へ
オリンピックは人生を変える

一流のフォトグラファーは、キャラが濃い人間も多く、人間的な魅力にも満ちていた。彼らと交わした言葉の数々、大きな望遠カメラをひっさげていく姿は、吉澤さんに強烈なインパクトを与えた。それはオリンピックが終わり、広告代理店で働き始めてからも吉澤さんの心をとらえ続けていた。

「自分も写真で生きていきたい」。

クリエイティブなことに関われるかも、と期待していた広告代理店での仕事は営業メイン。何かを作っているという感覚は薄かった。オリンピックで交流したフォトグラファーやコダックのスタッフたちは、吉澤さんの写真を酷評はしても、最後はこう言ってくれた。

当時よく顔を合わせていたフォトグラファーと。お祭りのような熱気のなかで、皆一様にフランクに接してくれたという。

「今度はお互いフォトグラファーとして会いましょう」。

1年もしないうちに会社を辞めた。そして写真エージェンシーのスタッフに転じ、フォトグラファーのアシスタント、スタジオ勤務を経て、30歳でフォトグラファーとして独立。現在に至る。

「オリンピックのアルバイトで“写真をやる”という意識が自分についたような気がします。当時は意識はしていなかったですが、内面が変わっていたのかもしれません」。

趣味程度に写真が好きだった大学生が、突然、報道の最前線で活躍する世界のフォトグラファーたちの写真に触れ、その仕事にまみれる。

日本各地や海外から集まったスタッフたち。大量の現像作業も、聞き取りづらい外国語でのやりとりも、不思議と苦ではなかった。

それは1人の人間の意識や人生を変える理由としては十分だろう。そんな日常では考えられない出会いが生まれるのも、選手だけではなく、さまざまな分野の最前線で活躍する人々が集まるオリンピックならでは。

「今思えばあんなチャンスは滅多になかった。僕は今の仕事につながりましたが、今回の東京オリンピック・パラリンピックも、誰かの人生を変えたり、大きな影響を与えるイベントになると思うと、なんだかワクワクしますよね」。

オリンピック・パラリンピックは紛うことなきスポーツの祭典。だが、選手やそのスタッフ以上に多くの人が関わり、選手と同じように懸命にその瞬間を過ごしている。たとえほんの一部だとしても、そこに参加することには、大きな意義があるに違いない。

 

田澤健一郎=取材・文

# TOKYO2020# オリンピック# カメラ# 長野五輪
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