特製の棚に600足を超えるスニーカーが整然と並ぶ、好事家にとって夢のような空間がある。
夫婦でこのコレクションを所有する高見 薫さんは、かつてナイキの営業担当として活躍し、日本のスニーカーカルチャー黎明期から業界に携わってきた人物だ。
話を聞いた人
膨大なスニーカーコレクションは、私の履歴書です
「ここにあるスニーカーは私の履歴であり、アルバムのようなものです。仕事柄で集まったこともあって、収集の参考になるようなものではないかもしれませんが(笑)」。
高見さんがナイキジャパンに入社した1990年代のスニーカーを取り巻くシーンは、今では考えられないほど混沌としていて、スニーカーが市民権を得るには程遠い状態だった。
「当時はファッションとしてスニーカーを履く感覚はまだ根付いていなかったんです。街でスニーカーを履いていると“尖った人”に思われてしまうような時代でしたから。’95年に発売されたエア マックスなどの大ヒット商品はありましたけど、我々メーカーは試行錯誤の連続でした。
2000年以降は、新たな取り組みの一環として、原宿界隈のクリエイターやショップとの交流を深めるために、毎日のように原宿に通ってましたね」。
裏を返せば、スニーカーの可能性が未開発だったからこそ、次々と新しいカルチャーが生まれたともいえる。
その証拠に、ミレニアム(2000年)を記念して登場したスニーカーの多くは20年経った今、復刻という形で再評価されているわけだが、高見さんはそれらの企画に深く携わってきた。
「あの頃はホントにいろんなプロジェクトが動いていて、新しいキャンペーンが始まるたびに新しいスニーカーに履き替えるという毎日。『エア プレスト』や『エア クキニ』などの画期的なモデルも登場したのも2000年くらいですね」。
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