オリジナルのTシャツを着て1人目の客を満喫する涌井さん。うなぎは高い…懐が痛む…(写真:涌井さん提供)
当記事は「東洋経済ONLINE」の提供記事です。元記事はこちら。仕事が終わって帰宅したら疲れて何もできない──。そんな人がいる一方で、時間、体力、お金をやりくりしながら趣味に没頭するビジネスパーソンがいる。彼らはなぜ、その趣味にハマったのか。どんなに忙しくても、趣味を続けられる秘訣とは。連載
隣の勤め人の「すごい趣味」では、仕事のかたわら、趣味をとことん楽しむ人に話を聞き、その趣味の魅力を深掘りする。
5年間で200以上の《1人目の客》に
ある日、偶然見つけた
ブログの書き出しに目が釘付けになった。
「趣味はオープンした店の1人目の客になることです」
詳しく見ると、趣味についての投稿が140以上もある。投稿主は、ラジオの制作会社に勤務する番組制作ディレクター。すぐに取材を申し込んだ。
その人は、京都市在住の涌井慎(わくい・まこと)さん。
2014年、新聞で京都の老舗中国料理店「ハマムラ」が移転オープンすることを知り、担当のラジオ番組で紹介しようと決めた。職場の近くだったこともあり、開店情報とともに開店直後の店の様子も紹介できればと軽い気持ちで開店前に行ってみたのが「1人目の客」になった最初だったという。
「人気のお店なので並んでいるだろうと思ったら誰もいなくて、思いがけず『1人目の客』になれた。老舗の新しい歴史が僕から始まるんだと思ったら感慨深くて、気持ちがよかったですね」(涌井さん、以下同)
本格的に趣味を始めたのはそれから5年後。2019年、大学の先輩が新しい店を出店するために「開店閉店.com」で空き店舗を探しているのを見て、「このサイトで開店情報をチェックすれば1人目の客になれる」と気付き、開店情報を見つけて並ぶようになった。
最初に並んだのが、とあるアパレルブランドが経営するおしゃれなカフェ。開店前に並ぶと、開店準備にいそしむスタッフの人たちから怪訝な目で見られたという。
「若い女性がターゲットのカフェでしたから、そりゃそうやなと。僕がスタッフでも、『なんでおまえが1人目の客やねん』と思うでしょうね。
でも、1人目の客を意識して並んだ最初の店だったので、諦めたくないなと思って並び続けました」
30分ほど待って、涌井さんは無事このカフェの1人目の客になれたという。
「開店した途端、怪しいおっさんが『お客さん』に変わり、スタッフのみなさんがフレンドリーに接してくれる。その切り替わりも面白くて」
仕事は前倒しで終わらせて趣味の時間を捻出
以来、開店情報をキャッチすると、スケジュールと照らし合わせて並ぶかどうかを決めて、1人目の客になることを続けている。開店情報は「開店閉店.com」のほか、街を歩いているときに見つけたり、涌井さんの趣味を応援する友人知人が教えてくれたり。
予算は特に決めていない。ただ、単価の高すぎる高級なお店は最初から諦めることもあるし、月末には「高めのお店だし、今回はやめとこう」という判断をすることもある。
並ぶ店も限定していない。自宅と職場のある京都市の飲食店が中心だが、コンビニや量販店、大型商業施設、屋外イベントのオープン、美術展の開幕、動物園の年明け最初の開園日、選挙の投票所に並ぶこともある。
2024年11月11日、15時にオープンした寿司酒場「丸福」三条店の1人目の客になった涌井さん。Tシャツは知り合いから「『1人目の客』って書いたTシャツを着て行ったら面白いんじゃないか」と提案され、自作した(写真:涌井さん提供)
ただし、1時間以上は並ばないと決めている。これまでの経験から40分前に着いておけば1人目の客になれる確率が高いとわかったため、40分前に店の前に着くように時間をやりくりする。
開店日が涌井さんの休日とは限らないし、仕事がある平日の昼間に開店する店も多いだろう。どうやって趣味の時間を捻出しているのだろうか?
「私の場合、やるべき仕事が終わっていれば、時間の使い方は比較的自由なんです」
涌井さんの仕事は、ラジオ番組の台本書きや番組内でかける音楽の選曲、番組の収録・編集、ネタ探しなど多岐にわたる。生放送や収録の時間帯は局にいなければならないが、決まった就業時間はなく、どこで仕事をしてもいい。だから、仕事のやりくりがうまくいけば平日11時開店のお店に並ぶこともできるのだという。
とはいえ、仕事は自分ひとりでは完結しないもの。仕事が押して、予定していた店の開店に間に合わないこともあるのでは?
「急な仕事さえ入らなければ、大丈夫です。もともと締め切りに追われるのが嫌いなので、早め早めに終わらせることが身についています。毎週To Doリストを作って、終わったものは赤ペンで消していくことを徹底していますね。本当の締め切りの1日前に、自分の締め切りを設定して仕事を進めることもあります」
ラジオ局でパーソナリティーに向かってキューを出す涌井さん(写真:涌井さん提供)
趣味を続けるコツは「ルールを厳密に決めすぎない」こと
もちろん、ここまでしても先客がいたり、店側から「予約で一杯なんで」と断られたりして1人目の客になれないことはある。成功確率は7割5分ほど。大型商業施設のように入り口が複数ある店舗では、「何をもって1人目の客とするのか」と悩むこともあるという。だが、1人目の客の定義や活動のルールは厳密に決めていないし、決めなくてもいいと涌井さんは思っている。
「こうあるべき、と考えると楽しくなくなってしまうからです。
実際、鳥貴族のオープンに行ったときに先客がいたことがありました。でもパッと注文して食べて、すぐにお会計。厳密にいえば1番目じゃないかもしれないけれど、『入店は2番目だったけど、お会計を最初にしたから1人目の客』と考えることにしました。そういう『実質1人目』をねらって並び続けることもありますし、1人目の客になれなかったドラマをブログに書くのもそれはそれで楽しい。自分が納得できればいいんです。
ただし、『並ぶ順番を譲ってもらえませんか?』と交渉することだけはしないと決めています」
2024年5月30日、17時にオープンした「餃子の王将」金閣寺店の1人目の客になった涌井さん。後ろに並んでいた近所のおじさんが撮ってくれた写真(写真:涌井さん提供)
涌井さんの趣味については妻も理解してくれているという。
「1日の予定を確認する会話の中で、普通に出てきますね。『今日は何時に1人目の客になりたいと思うんやけどいい?』『いいよ』って言ってもらえてます。寝坊したときに、『今日は1人目の客になる日じゃないの?』と起こされたこともありました」
並んでいるのをじろじろと見られたり、早めに行ったのに1人目になれなかったり。それでも続けているのは、人とのコミュニケーションが楽しいからだそうだ。
「初日で忙しいにもかかわらず、店員さんから声をかけていただけると本当にうれしいですね。自分の存在を肯定してもらえた気がして。
開店前のバタバタした状況の中で並ばれるのは正直うっとうしいこともあると思うんですよ。それでも僕の存在を楽しんでくれたり、優しく接してくれるお店には2度3度と足を運びたくなりますし、実際何度も利用させてもらっているお店もあります」
2024年11月11日12時、「キョウハスパイス」の1人目の客になった涌井さん。「入り口扉のガラス越しに私を見つけた店主さんが出てきてくださり、『オープンまでもうちょっとお待ちくださいね』と声を掛けてくださいました。もうこの時点で『いい店』確定です」(ブログより)(写真:涌井さん提供)
コスパ・タイパだけの世界は‟面白くない”
涌井さんの「1人目の客になる」という趣味を聞いたときの周りの反応は2つに分かれるという。面白がってくれる人と「何が楽しいの?」「それで?」と言う人だ。
仕事を前倒しで終わらせてまで店に行き、そこから40分並び、飲食や買い物をする。それ以上でもそれ以下でもなく、見返りを期待しているわけでもない。そんなコスパ・タイパ重視の風潮に逆行するような涌井さんの趣味は、奇妙に写るのだろう。
「でも、バッティングセンターに行く人に『プロ野球選手になるためにやっているの?』と言う人はいませんよね? 僕の趣味も同じです。店ののれんをくぐったらゴール。それが楽しいからやっているだけです。楽しんでやる趣味に意味や思いはなくてもいいと思っています」
だから、涌井さんは「コスパ」「タイパ」という言葉が苦手だ。
「コスパやタイパは無駄なものをそぎ落とそうとする行為ですよね。でも、面白い世界は、きっと自分の想像の外にある。合理的で効率的なだけでは、世界は面白くならないと思っています」
涌井さんはオープンした店の1人目の客になるという「縛り」を設けたことで、生活の自由度が増したと感じている。
「この趣味がなければ、若い女性に人気のカフェに行くことはなかっただろうし、知らないままのお店もたくさんあったでしょうね。でも、1人目の客になるという縛りを自分に課したことで、世界が広がった。いろんな世界に少しだけ足を踏み入れておくことで、将来何かやりたいと思ったときに、『知らない世界だから』と初めから敬遠することがなくなるんじゃないかと思っています」
閉店惜しむ声あるけれど…「僕らが通っていればなくならずに済んだかも」
涌井さんがこれからチャレンジしたいのは、美容院や歯科医院の1人目の客になること。出張先の東京でも、いつか1人目の客になりたいと考えているという。
コロナ禍をきっかけに、飲食店の突然の閉店がニュースになることが増えた。そのたびにSNSには閉店を惜しむ声があふれる。しかし、涌井さんは閉店時に惜しむのではなく、趣味を通して開店したお店を応援したいと考えている。
「閉店を惜しむ投稿を見ると、僕らが通っていればなくならずに済んだかもしれないと思うんです。これからも1人目の客になって、いいお店を応援し続けたいですね」
2025年3月24日、「おにぎりはつき」の1人目の客になった涌井さん。オーナーさん(左)がTシャツと趣味を面白がってくれて、開店前に写真を撮ってくれた(写真:涌井さん提供)