コパイバでつくった石鹸、歯磨き粉、パーム
1つ目の困難は誰にでも容易に想像がつくと思うが、認知度である。
「当初、農業法人時代に産直で有機野菜を買っていただいていた健康意識の高いお客さんに売っていましたが、何しろ20年くらい前の顧客リストのため、世代交代されていました」
1000人に満たないほどのリストだったが、ここから口コミで広げるのは現実的ではない。それ以外の方法として、オーガニックショップ、クリニックの物販コーナー、ヨガ教室などで販売しつつ、通販カタログで展開した。
2つ目は、たくさん売れればいいというわけではない点だ。
「アマゾンの腐葉土のなかでしか生きていけない土壌菌が関与しているので、コパイバの木を植林すればいいというわけではないのです」と言う。
資本主義社会で売れすぎてしまうと、乱獲が始まる。類似品も登場し、ジャングルは乱開発されていくだろう。そうなると、現地のインディオたちの生活が成り立たなくなる。
「ブレーキとアクセルのバランスを間違えると、大きな歪が起きてしまう」と、彼は言う。コパイバマリマリの製造販売はインディオたちからの委託されたビジネスであり、森の生活を維持するための仕事だ。ヒットした方がいいが、売れすぎるのはよくない。だからソーシャルビジネスに分類されるものだろう。
つまり、吉野さんの会社が主語となるビジネスではない。森、そして森の住民たちが主体であり、言い方を変えるなら、吉野さんはアマゾンの森から雇われているようなものだ。アマゾンという森とその文化が吉野さんを使い、販売する。フェアトレード商品として遠い日本で売られたものは、インディオの経済的自立や教育支援にも寄与する。
コパイバの採集者と社長の吉野朝氏
ある日、彼が子どもの頃からの知り合いであるインディオとアマゾンで会った時のことだ。彼が行った仕事に不手際があり、彼はそのインディオに対して謝ったという。すると、インディオはこう言った。
「謝らなくていい」
「それはなぜか」と尋ねると、「お前がこの仕事のリーダーなんだろう。お前が決断したなら、俺の苦渋もお前のものとして受け入れるんだ。それにお前は、息子みたいなものだから」という答えだった。インディオの文化で「言葉」は絶対だ。文字の文化ではなく、口語と口承の文化である。インディオたちは、言葉にして何かを伝えた時、それは絶対的な約束であり、言葉は実現するためのもの。お互いの信頼が基盤にないと言葉は成り立たない。だから、言った言葉を守れなかった人間は信頼されなくなってしまう。それでも家族だと言われた吉野さんは、アマゾン社会の一員とみなされているのだろう。
彼はマクニカを退職する時、上司から言われた言葉を思い出す。
「どんな仕事も、一人の人間と一人の人間が向かい合い、そこに信頼があってお互いに決めたことを成すこと。それが仕事だ」
彼はコパイバマリマリの営業をして、とある年配の経営者からこう言われたことがある。「文明は消費されてしまうものだが、文化はそう簡単に消費されるものではない」と。
文明とは人の進歩と発展が生み出した技術の集合体だという。テクノロジーは生活を楽にしてくれる。すぐに普及して社会を変える力をもつが、しかし、次々と新しいものが生まれ、消費されるのも早い。一方、文化とは生活のなかで人々が積み重ねてきた、いわば人の営みの結晶のようなものだ。生き方・暮らし方に根づいた民族的アイデンティティである。それゆえに安売りされるものでもなければ、簡単に消費されて廃れていくものでもない。
コパイバマリマリはまさにインディオと森の文化であり、無下に扱うこともできないし、安売りもできない。彼は「僕がやることに意味があるのだろう」と考える。
日本にも大勢の外国人が観光にやってくる。日本の文化について同じように考えたことがあっただろうかと我が身を振り返った。
4/4