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2025.04.01

ライフ

南米ジャングルで育った日本人少年が、社長になって日本で売る「コパイバマリマリ」とは



当記事は「Forbes JAPAN」の提供記事です。元記事はこちら。

「文明は消費されるが、文化は流行で簡単に消費されるものではない」
こんな意味深な言葉を聞く機会があった。

「5歳の時に家族でブラジルのアマゾンに移住しました」

ビジネスピッチコンテストは数多くあれど、「ジャングル育ち」という変わったスピーチを聞くことはめったにない。大分県が主催する「OITAゼロイチ」決勝大会でのことだ。
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アマゾンで育ったという吉野朝(あさひ)社長は、1987年生まれ。別府市でスキンケア商品を製造販売する「サポートジャングルクラブ」を運営している。

以下は、審査員だった私が整理した内容だ。


 
(1)アマゾンの先住民が使う樹木の液体を原料にした「コパイバマリマリ」というスキンケア商品を製造販売しているという(一体、それを日本で誰が買うのか?)。

(2)スキンケア市場そのものは毎年大きく成長している。日本製だけでなく、韓国製やオーガニックコスメも人気が高い。この激戦市場にどうやって参戦するのか? 

(3)アマゾンの素材といえば、南米ハーブの代表格「マカ」が100億円市場に成長し、他にも「太陽のマテ茶」やエナジー系ドリンクの原料「アサイー」など大化けする例はある。ちなみに、大分県も1980年代に当時の平松守彦知事が主導した「一村一品運動」で、「吉四六」や「いいちこ」などの大分麦焼酎ブームを起こすなど、ブランドづくりの実績がある。

(4)家族でジャングルに移住した話ですぐに思い出したのは、ハリソン・フォード主演の『モスキート・コースト』(1986年公開)という映画だった。文明社会に背を向ける発明家の父が、妻と4人の子供を連れて、中南米の奥深くに移住する。前半はハリソン・フォードが演じる父親を中心に、ユーモアあふれる話が展開するも、次第に暗転。長男役のリバー・フェニックスの目を通して、狂っていく父親と翻弄される家族の姿が描かれていく。中小企業の事業承継劇でも「父親に振り回される家族」はよく見受けられる。地球の裏側の、しかもジャングルに移住と聞けば、その後の顛末がどうしても気になる。

大分県が主催するビジネスコンテストで、結局、吉野さんは「県知事賞」の受賞には至らず、Forbes JAPAN編集長賞となった。しかし、吉野さんとのその後のお付き合いから、ピッチでは知り得なかった「ブランドづくりとは何か」を教えられることになった。

「もともと父は学生運動をやめて、京都でレストランを経営していたそうです。私が生まれる前ですね。そして1980年頃に熊本県の天草に土地を見つけて移住し、山を開墾して有機農法を仲間たちと始めます。農協を通さずに有機野菜を販売する、産直で起業したんです」と、吉野さんは言う。

1970年代半ばから80年代にかけて、学生運動やカウンターカルチャーの若者たちが有機農業に活動を移していった話はよく聞く。有名な例が歌手の加藤登紀子と獄中結婚した元活動家の藤本敏夫だろう。彼は藤田和芳と「大地を守る会」をつくり、それはのちに経営統合によって現在のオイシックス・ラ・大地となっている。

人気作家の有吉佐和子が朝日新聞で連載した小説『複合汚染』が大反響を呼び、大ベストセラーになったのが1979年。環境問題や自然志向は80年代に入ると市民権を得つつあった。とはいえ、マイナーだった有機野菜が一般的になるにはまだ時間がかかる。1980年にオープンしたファミリーレストラン「ジョナサン」が有機野菜をメニュー化したのが1992年。外食トップのすかいらーくグループが「有機」という言葉を使うようになり、少数派の生産者と大手資本が融合する時代の幕開けとなった。

同じく1992年、天草に移住した吉野家も転機を迎える。この年、リオ・デ・ジャネイロで国連主導による「地球サミット」が開催された。「リオ宣言」で有名な歴史的国際会議だ。この会議によって、一気に世界で認知された言葉が、「気候変動」と「生物多様性」である。吉野さんの話に戻ろう。

━━当時、父が有機農業のかたわら、NGOで農業や食の安全についての活動をしていたことから、いろんな方が天草の農場に出入りするようになっていました。ある人から、リオで国際会議があるから行ってみないかという話になったのです。

ブラジルにわたった父はリオ会議に参加していたアマゾンのインディオたちの集会に顔を出して、リーダーたちと親しくなります。そこで、「先住民の子どもたちには教育が必要だから学校づくりを手伝ってほしい」と依頼されたのです。日本に帰ってくるなり、父は隣の森にでも行くような感覚で、「明日からアマゾンに行くぞ」と、一家5人(夫婦と息子3人)で移住することになりました。私が5歳の時でした。
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