将来性が期待されるカイメン研究
海洋生物学者 伊勢優史さん●1975年、スペイン領グラン・カナリア島生まれ。理学博士。京都大学卒業。東京大学大学院理学系研究科博士課程修了。東京大学特任助教、名古屋大学特任助教を経て、マレーシア科学大学、琉球大学、黒潮生物研究所に在籍。著書に『じつは食べられるいきもの事典』など。多数の図鑑や辞典においてカイメンの部分を担当してきた。
地味で動きのない生き物に見えるカイメンは人と同じ“動物”に分類される。だが器官を持たない様子からは、細胞が集まってできた「集合体」のような生き物に思える。
活動自体も一般的な動物から連想するものとは程遠い。幼生のときに岩などに着底し、変態するとそこから移動することはできない。
できることは、体に空く無数の小さな孔から海水を体内に取り込み、水中に含まれる微小な有機物を濾過して栄養分として吸収。濾過された海水を再び海中へ排出するくらいのものだ。
けれどその濾過する水の量は膨大で、わずか1kgのカイメンが1日に2000Lもの海水を濾過したとする研究結果もある。
2000Lといえば一般的な家庭用浴槽の10杯分にも匹敵する量だ。その様子から「天然のフィルター」という呼称さえ生まれた。
非常にシンプルな構造ながら驚くべきパワーを持つカイメンには、医学や薬学に有用な物質が発見された種もある。
最も有名な事例は、関東の磯を歩いていても目にできるクロイソカイメンから抽出した化合物、ハリコンドリンBをもとに開発、実用化された抗がん剤だ。
伊勢さんによれば「近年の解析技術の進歩により海の生き物の化合物研究には伸びしろが見られる。なかでもカイメンからさらなる新規有用化合物が見つかる率はとても高い」のだという。
これが前段で触れたカイメン研究の将来性のひとつ目だ。
ふたつ目は、海中に放出するカイメンの排泄物が、生態系において重要な役割をはたしている点である。
その排泄物には自身の体の細胞の塊が含まれており、周囲の小型動物が餌としていることが判明。カイメンは水を濾過してきれいにするだけではなく、周辺の生き物の生活に貢献していると考えられているのだ。
3つ目は環境DNA解析の見地によるもの。環境DNA解析とは、水や土壌などの環境サンプルから、そこに生息する主な生物のDNAを検出し、生物の分布や多様性を調べる方法だ。
カイメンは海水を濾過することで生活しているが、その体内には周辺に棲む生き物に関連するDNAが残されているというのだ。
「まだ発展途上の分野ですが、南極海に棲むカイメンの組織を調べた研究からは、ウェッデルアザラシやヒゲペンギンといった動物のDNAが検出されました。
それまでは海水自体を採取して解析していましたが、今後はカイメンを活用した解析も増えると考えられます」。
6億年も前に誕生しながら研究においてはまだ途上の存在。今後、その秘められた可能性が解き明かされていくことが期待されているのだ。
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