OCEANS

SHARE

ヒジキ漁に立ち会い生産者への敬意を抱く

写真家 津留崎 徹花さん●1974年、東京都生まれ。日本大学芸術学部写真学科を卒業後、社員カメラマンとしてマガジンハウスへ。多くの雑誌や書籍の撮影に携わる。東日本大震災をきっかけに移住を考え始め2017年に伊豆・下田へ移り住む。現在は東京での撮影の仕事も行いながら、海のリズムとともに生活をしている。ウェブマガジンの「コロカル」では「暮らしを考える旅」を連載中。

写真家 津留崎 徹花さん●1974年、東京都生まれ。日本大学芸術学部写真学科を卒業後、社員カメラマンとしてマガジンハウスへ。多くの雑誌や書籍の撮影に携わる。東日本大震災をきっかけに移住を考え始め2017年に伊豆・下田へ移り住む。現在は東京での撮影の仕事も行いながら、海のリズムとともに生活をしている。ウェブマガジンの「コロカル」では「暮らしを考える旅」を連載中。


根を下ろしたのは観光地として知られる伊豆・下田。移り住んで7年が経つ。6年前から米を作り始め、自宅の庭には四季折々の果実がなる。

だが移住先の候補としていたのは「ディープなところ」。昔ながらの文化伝統、風習が連綿と息づいているような場所だった。

「移住先として伊豆は避けていたんです。観光地というイメージが強く、もっと未知なる世界を求めていたので。でも実際には、それまで下田の奥深さに気付いていなかっただけでした。

下調べのため現地入りした際に一軒の不動産業者と出会ったのですが、その社長夫人が天草を採っていたんです。赤いレクサスを乗り回しているのに自ら海藻を採るというのが面白いと感じました。

その後、海水浴に出かけたら、たまたま海人さんとも出会ったり」。

さらに直売所には多彩な野菜が並び、多くの生産者がいることに気が付いた。車を走らせると田畑が広がる昔ながらの農村風景を目にするなど下田の見え方が変わり、まもなく移り住むことを決めた。

さて、「海と、人と」展で飾られた作品の被写体は移住先・伊豆の海人たちである。

海人との出会いは移住以前、娘とのふたり旅で九州の天草諸島を訪れたことにある。宿泊先の旅館で食したヒジキがあまりに美味しく、女将さんから地元の漁師が目の前の海で採ったものだと聞くと、翌日の漁に急遽同行。

岩場にびっしりと生えたヒジキを漁師が豪快に鎌で刈っていく様子に、心が震えた。

「未知の世界に出会えたこと。自分には絶対にできないこと。

それに、ヒジキってパッケージに入って売られているというイメージでしたから、衝撃的でした。ヒジキという食の原点はここなのかと、改めて生産者の存在を意識したし、敬意を抱きました。

この人たちがいたから私は不自由なく食べられていたんだ。そういう思いが強く生まれました」。



もともと食への関心は高かったが、九州への旅を経て、海の幸の原点に対してさらなる関心を抱くことに。なかでも身ひとつで海と対峙する海人の魅力に引き込まれていった。

「やっぱり漁がものすごく危険なんです。例えばはんばのり。伊豆の特産品で冬にだけ採れるんですが、波の荒い岩場に良質なものが採れるので、気をつけていないと波にさらわれてしまいそうな場所にも入っていくんです。

海は凍てつく冷たさ。けれどものともせず岩場に向かい、波を被りながら漁をする姿は、本当にたくましくて、格好いいんです」。

写真は被写体の近くに行かないと撮れない。だから津留崎さんも夢中になって海人たちを追いかけることに。

機材の入った重いカメラバッグを背負い、獣道を通り、ロープを使って岸壁を下りた先の岩場が撮影地になったこともある。波飛沫がかかったことも、滑る岩に足を取られたことも、足や手を軽く切ったこともある。水中写真にも挑んだ。

かように撮影現場は凄まじい。凄まじいから誰もが真剣で、「良い写真が撮れる」のだと、津留崎さんは言う。

「撮影2年目に膝から腰くらいまで浸かって撮ったことがありました。でも防水のカメラ機材やウエットスーツがないから、それより先に行けなかったことが悔しくて。翌年は装備を準備して挑んだんです。

そうしたら海人さんたちが、『あんた本気やな』と言ってくれて。『いくらでも撮っていいから』って。すごくうれしかったですね」。


3/3

次の記事を読み込んでいます。