「2世ブーム」の波に乗り、俳優業を開始
宍戸さんはもともと大のスポーツ好きで、高校・大学ではスキーのインターハイに出場する腕前だった。サーフィンを始めたのも、動作がスキーに似てるからという理由。
「一緒にスキーをやってる友達に、サーフィンとスキーは似てるからって誘われたんです。やってみたら案の定、最初から波に乗れちゃって。すぐ夢中になりました。それ以来、学校があった東京・国立と海のある神奈川・辻堂を行き来する日々が始まりました」。
中学から大学まで、夏はサーフィン、冬はスキーのルーティンを繰り返す生活が続いた。大学滞在中に俳優デビューを果たすことになるが、その目的もサーフィンを続けるためだったという。
「スキーとサーフィンを繰り返す生活を続けていたら、周りの友達は大学を卒業して就職して、自分で稼ぐようになっていたんです。僕はというと親のスネをかじったままで…。当時、世間はちょうど2世俳優のブーム。宍戸錠の息子として僕にも声がかかったのをチャンスに、サーフィン代を稼ぐために俳優業に挑戦することにしたんです」。
デビュー当時の宍戸さん。
「2世ブームの特権だった」と本人が振り返るとおり、中井貴一主演のNHK大河ドラマ『武田信玄』がデビュー作。それを皮切りに、それから数年は芸能界に没入することになる。
「大学も中退していたんで、映画やドラマの撮影現場がまるで学校でした。演技のノウハウを集中的に叩き込まれ、俳優の世界に魅了されました。昭和のノリで、休みの前日は朝までスタッフと飲みに行くのも当たり前。いわゆる『現場百回』ってやつです」。
大河ドラマ出演の翌年には銀幕デビューを果たし、「日本アカデミー賞」の新人俳優賞受賞。その後、数々のドラマにさまざまな役で出演し、タレントとして「10代目くいしん坊、万才!」や大正製薬のCM「リポビタンD」で強く記憶に残る作品で活躍した。
「俳優業も、僕にとっては波乗りと同じです。舞台『天守物語』では坂東玉三郎さんの相手役をやって、『カラミティ・ジェーン』では黒柳徹子さんの相手役を努めました。大御所の役者の方と仕事をするときは緊張感があるし、それなりの備えも必要。俳優という現場での、まさにビッグウェーブですね」。
バリ島のウルワツポイントにて。
そして、どんなに忙しくなっても、芸能界の隙間を狙いサーフィンを続けてきた。
「CMのロケでオーストラリアやハワイに行けば、昔は撮休を狙ってサーフィンをやってました。外国の海には、波の高さが6〜8フィート(約2m)越えるものもあります。めちゃくちゃ怖いんですよ。ビビって漏らすこともしょっちゅう(笑)。
訓練してたって、一歩間違えれば死ぬ世界です。でも、その恐怖に打ち勝つのが、また快感だったりするんですよね。そして、やっぱりその快感は陸のうえではどうしても得られない」。
サーフィンに虜になった45年の想いが溢れ出す。
「海に2時間いたとしても、せいぜい波に乗れる時間は30秒もない世界なんですよ。1回の波で5秒乗れればラッキーな方。でもまれに、チューブに入れることもあって、母親の胎盤に包まれたようなスローモーションの世界を体験できる。
うわーっ!! なんだこれはーー!!!!って、いろんなことが頭を駆け巡る、あの何ともいえない一体感。 人間も地球の一部っていうか、理性とか人間である前に、生き物であれっていう。やっぱり、僕が戻る場所は海なんです」。
◇
2年後のカフナへの挑戦。そこに照準をあわせつつ、芸能でも海でも、いついい波が来てもいいフォームで捉えられるよう、精神と肉体を鍛える。俳優・宍戸 開さんの現在地を覗いたら、飄々とした力強さの根源を垣間見た気がした。