常にそこにあるけれど距離も感じる自然の存在
高校を卒業して東京に出たときは、染色とは別の分野に興味があったのですが、25歳で奄美に帰ってきて、この仕事に携わるようになってから、すべては自然に帰属するというか、そこにもうあったんだ、と思うようになりました。僕の興味関心や生活は、すべて自然を土台にして成り立っています。ですから、自分自身の生き方や表現におけるバックグラウンドそのもの。それに自然はフラットですよね。
例えば染色でも、植物自体は変わらないけれど、こちらのアプローチが変わることで、深い色味になったり、淡い色味になったり、答えが変わってくる。自然は問いかけには答えてくれるけど、消化するのは自分次第だったりする。
だけど頭で考えているだけだと、その中で収まってしまうんです。実際に手を動かしてフィジカルに得ていくものは、考えている以上の反応が起きることが多いですね。まるで手で考えるような感覚。あえて失敗してみることもできる。何も情報がなかったり、わからなかったりするほうが、やってみるしかないからワクワクするし面白い。近いようでいて遠い、わかるようでわからない、その距離感がいいなと思っています。
例えば小さな山でも「ここは絶対に立ち入っちゃいけない」と直感する場所があって。もちろん、手つかずの山にはハブがいるからという、現実的な危険性もあるんですが、それ以上に「そこに人間がいることが想像できない」と思う感覚。こっち側とあっち側、そこには相容れないものがある、そんな自然との距離感があってもいいんじゃないでしょうか。
「意外にも、近所の人に泥染の良さを伝えることは難しい。人は身近なものより外からのもののほうが受け入れやすい」と金井さん。作品を作るときや何かを感じたり思考するときには、距離を意識していると言います
都市と地方、移住者それぞれに役割がある
自然に対する考え方などは「距離感の違い」もありますから都市や地方によっても変わると思いますし、人それぞれ。生活にはその土地での見えていることの影響の方が大きいとは思いますが、地球に対して思うことは世界中変わらない。都市と地方、移住者と地元の人、それぞれに役割があり、うまく混じり合うと良い化学反応になるんじゃないかなとも思います。
見えていることには見えないことが含まれているように感じるので、それを紐解く術に現代の知識や技術を用いることも面白そうですよね。