長きにわたりスニーカーに携わってきたミタスニーカーズのクリエイティブディレクター・国井栄之さんとビリーズPRの佐藤敬太さん。
スニーカー史10年を振り返っていただいた
前回、
前々回に続き、番外編をお届け。今回は’90年代のスニーカーブームの真実やふたりのお気に入りスニーカーについて語ってもらった。
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‘90年代のスニーカーブームの真相を激白
――おふたりは’90年代のスニーカーブームも経験していますが、実際の盛り上がりはどうでしたか? 国井 そんなに実感はなかったですね。あの頃は、まだスニーカー好き=スーパーマイノリティ。
――そうなんですか! 国井栄之さん●東京を代表するスニーカーショップの名店、ミタスニーカーズのクリエイティブディレクター。数多くの別注やコラボを手掛ける、業界きってのヒットメーカー。
国井 今は、通勤でもスニーカーを履いている大人が凄く多いですが、当時はほとんどいませんでした。電車に乗っているとき「この大人たちのビジネスシューズをどれだけスニーカーに変えられるか」ということをずっと考えていましたね(笑)。僕がミタスニーカーズに入った頃は、ABCマートさんでもまだ2桁の店舗数とかではなかったですよね?
佐藤敬太さん●スニーカー業界に20年以上も携わるベテランにしてビリーズのPRを担当。シーンの動向を熟知し、これまでの知見と感性を生かしコラボモデルの製作にも携わる。
佐藤 そうですね。
国井 今よりスニーカーショップ自体が少なかったんですよね。当時、古い靴を買うなら古着店、最新モデルならスポーツ店、ちょっとワケのわかんないのを買うならスニーカーショップ、のような感覚でした。
佐藤 ’90年代はスニーカーの情報が少ないかったので、みんな頑張って掘っている感じでしたもんね。今は情報がすぐに手に入るし、分かりやすく整理されているので、買い物もしやすくなりましたよ。
国井 そうそう。月1回発売の雑誌が最新情報で、あとは仲間内からの口コミで情報が得るのが普通だった。
昔はお店のオープン前に運送会社の人が商品のスニーカーを運んでくるんですが、箱にブランドロゴが書いてあるじゃないですか。だから配達員の後ろをずっとお客さんがついていくっていう(笑)。僕らはそのお客さんに「ごめんなさい、まだ今日売る商品じゃないんです」と説明して解散してもらって、それから商品の検品を始めていました。
だけど、そんなお客さんはあくまで特殊な人の集まり。どのジャンルでもそうですが、スニーカーマニアと呼ばれる人たちの一角だけ盛り上がっていた感じです。
――そうだったんですね。 国井 例えばエア マックスも「1995年がすごかったんですよね」と聞かれますが、実際エア マックス 95のローンチって’95年の秋なんですよね。アメリカで販売し始めたのが9月で、実際に一番盛り上がったのは’96年だったんですよ。
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