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「鴨川に移ったときは、髪も長くて、ヒッピー代表みたいな風貌で。そんな奴がいきなり田んぼの真ん中にバスを置いて暮らし始めたって、地元の人から見ると『あいつら、何やってるんだ』ってなるわけじゃないですか。そのときの目線はやっぱり辛くて。仲良くなりたくて、地元の消防団や自治体に入りたいと思っても、怪しまれて受け付けてもらえなかった。

4年暮らして、長女が生まれたとき、そこでようやく地元の人に『お前ら、ここで暮らしたかったのか?』って言われたんです。『え? ずっと暮らしてますよ〜!』って思ったけど、これって波乗りと一緒なんですよね。ローカルがいて、ビジターがいる、この図式って絶対に覆らないじゃないですか。

移住した人の中には、自治会にも行かず、自治会費も払わず、消防団にも入らず、自分の世界を作ろうとしている人がいるけれど、そういう人って、大体住めなくなる。勝手に自分で自分の首を絞めているわけです。世界はハーモニーなんだから、僕らはお邪魔しますという低姿勢で入らないといけないと学びました」。


 
穏やかな暮らしが続くはずだった。だが、長女が生まれた直後、東日本大震災が発生。カンマさん一家は、福島第一原発の影響なども考え、翌日には避難を開始した。

「僕としては、作った家に思い入れがあるから、後ろ髪を引かれていたんです。ただ、まゆちゃんは『行こう』って決めていて。子供を守ろうとする力って強いなと感心したし、物事が動くときはそんなものだと思いました」。

ちょうど家を譲り受けたいという人が現れ、カンマさんは思い入れのある家を、なんとタダで譲った。家にあったたくさんのサーフボードは格安で手放し、家族は次の移住先を求めて、約2カ月の旅に出た。そうして行き着いたのが、宮崎県串間市だった。

「もともと、鴨川に引っ越すときにも候補として挙がっていた場所だったんです。さらに旅の途中で会った昔の友人が『宮崎に面白いおばさんがいるから、会ってみて』と言ってくれて、とにかく行ってみようと。ただ鴨川での教訓もあったので、髪の毛は短くして、襟付きの服を着て、訪ねました」。


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