「戦メリ」からボウイの来日、ラジオ出演まで
それから坂本さんが事務所を退所する1986年まで、マネジメントの仕事をした。海外での著作権に関わる業務だけでなく、個人メンバーの海外コーディネーションや通訳など英語に関わることはすべてピーターさんに一任された。
「あくまで僕は社員だから。メンバーのみんなの希望を満たすような役割だからね。だけど、彼らは英語で歌う曲を自分たちで作詞したいという希望もあり、彼らが日本語で作った歌詞を翻訳する仕事まで担うことになっちゃってね」と回想する。
1982年には「戦場のメリークリスマス」の撮影現場・南太平洋のラロトンガ島での撮影に坂本さんに同行した。朝になると坂本さんが起きているのを確認し、朝ご飯を食べ、車に乗せて現場入りする毎日だった。
「教授の付き人として現場に入り、最初は暇でしたね。でも周りを見回すと、明らかに手が足りていないんです。通訳も必要だと感じる場面が多くて、第一助監督に『手が足りてないみたいだから、必要なら何でもやります』と声をかけました。すると、いろんな仕事を与えてもらいました」
そこでピーターさん自身もエキストラ出演もすることになった。
坂本さんは「自分は役者ではない」と何度も周りに言っていたというが、「役者として映画に出ることでセリフを覚えたりと、緊張感はあったと思いますよ。教授は周りの日本人役者や監督とよく話し合っていたことを覚えています。色々ありましたね」と微笑む。
1983年5月カンヌ国際映画祭で、大島渚監督の肩に手を掛ける坂本さん 左はデイヴィッド・ボウイ(Getty Images)
だが、当時は英語がそこまで得意ではなかった坂本さんは、共演のデイヴィッド・ボウイとは撮影現場では積極的に交流するようには見て取れなかったという。だが、後に83年11月坂本さんのNHK-FM番組「サウンドストリート」出演のためにボウイは来日。その際には、ピーターさんが通訳を務めた。
その番組ディレクターから、坂本さんの番組が終了する時に「今後は君の番かね」と声をかけられ、1985年4月からNHK FMで初めてピーターさんのレギュラー番組「ニューヒットポップス情報 ヨーロッパニューヒット」が始まった。
「もう願ってもないチャンスでしたね。教授に感謝しなきゃいけないんです。この番組出演がなければ、今やっている仕事に繋がらなかったと思う。でも、番組名はかっこ悪かったね」と笑う。
坂本龍一にしか出せない「音色」
世界のサカモトについて「人の印象に残る短いメロディを瞬時に作るのは、一種の才能ですね。さらに自分だけの音を表現するのはすごい才能です」と評する。坂本さんは優れた作曲家であることに間違いない。だが、ピーターさんからすると「音の職人」だと感じている。
YMOのレコーディングスタジオにいくと、当時最新だったアナログのポリフォニックシンセサイザーがあった。演奏する人によって全く違う音色が出された。
「3つのつまみをいじって音を形成するわけですが、教授の音は本当に個性的でね。あんな音を出せるのは彼以外にはいないと思いました」
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