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ハワイではサーファー仲間に誘われフリーペーパーのモデル仕事などもしており、その話を聞いた征二に連れられプロレス好きな芸能事務所の社長のところへ。遊びに行くといった感じだと思っていたら、その出会いがきっかけとなってモデル業の仕事が生まれ、俳優への道が開かれていったのだ。

そうして足を踏み入れた俳優の仕事は、「一生続けていくものだと思っていた」と。もし無期限の芸能活動休止を決断せざるをえない難病にかかっていなかったなら。そんなタラレバの質問に対して、そう答えた。

「芸能の世界に一生いるものだと思っていました。35歳くらいのときかな。強い責任感を持って、いい役者になろうと。そう覚悟を決めたんです。

だから、たとえ『この仕事やるんですか? 』『このセリフ必要ですか? 』と思うようなことがあっても、最終的にはすべての仕事に対して全力で向き合っていました」。

結果が出たときは、最高に気持ちが良かった。

「芸能は制作にあたってチームで動くことが多いんです。テレビドラマであれば、監督、プロデューサー、カメラ、スタイリスト、メイク、編集といった多くのスペシャリストがいて成立し、自分の役割は演じること。みんなで創るから、良い視聴率が取れたとなったら最高に気持ちがいいんです。

フジテレビ系列のテレビドラマ『医龍』で一度だけ視聴率20%を取ったことがあって、もう役者を辞めてもいいと思えるくらいにうれしいものでした。スタッフもみんな喜んで、プロデューサーだけが『来週はどうかな……』なんて心配していたんですが、俺は『もういいじゃん、初回で20%取れたんだから』って感じで(笑)」。

今のようにSNSの時代ではないこともあり、評価のひとつを数字に求める時代だった。けれど出演したコマーシャルの商品が売れたのかどうか耳に入ってくることはない。

表紙を飾った雑誌も然り。だから自己満足なところがあり、ストイックに仕事に向き合うことになっていった。

「すべての仕事に120%で臨まないと。そんなふうに思っていました。最後の舞台も喉を壊し、体調を崩してしまい……。

初めての舞台で時代劇だったんですけど、言葉や所作、殺陣もあったし、いろいろと身に付けなければならないことがあって、背負いすぎたのか最後はパンクしてしまったんです」。

今なら「明日できるなら明日でいいじゃんと自分に言える」と言う。肩の力が抜けた。表情も柔和だ。思えば難病を患って、8年が過ぎた。

「最高の気分に浸れた“人の前に立つ”という時間はなくなりましたけど、今はもっと生活の中に気持ち良さを感じられるようになったかな。

役者時代は毎日のように撮影現場へ行き、たまに時間ができたら海へ行く生活だったんです。サーフィンは文字どおりに息抜きだったんです。

でも今は朝起きて、晴れて気持ちいいから海へ行こう、といった日々。ゆっくりと朝のコーヒーの美味しさを楽しんだり、子供たちと遊んで、成長を感じて抱く微笑ましさも、気持ち良さを感じる瞬間です」。


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