▶︎すべての写真を見る 「失敗から学ぶ移住術」とは…… 海と山、ゆったりした時間の流れ。多くの人が憧れる島暮らしだが、島移住のリアルはなかなか想像が難しい。
今回登場する中村徹也さんは、島の暮らしを外からも内からも知る人物。都会から来る移住者が思い描く憧れも、受け入れる側の島民の気持ちもよくわかる。そんな彼に島移住を成功させるための心得を伺った。
中村徹也●1974年生まれ。島根県隠岐郡海士町出身、宿「なかむら」4代目主人。18歳で島を出て松江の高校に進学。板前修業のあと、大阪、東京、兵庫などを転々とし自身の居酒屋を経営し、33歳で家業を継ぐため帰島。著名なミュージシャンがライブをすることで知られるお泊り処「なかむら」を夫婦で切り盛りしている。
島を出るために松江の高校に進学
中村さんが暮らすのは島根県隠岐郡海士町。日本海の島根半島沖合約60キロにある、1島1町の小さな町だ。
地方創生の先駆的存在としても知られており、成功事例の「島留学」では全国から入学希望者が後を絶たない人気ぶりである。
中村さんは妻と2人の子供の4人家族で、代々続く宿と居酒屋を営んでいる。高校進学のために島を出て、33歳で島へ戻ったUターン組だ。
「ちょっとイケてる奴は島を出るっていう文化は昔からあって、僕も島を出るために勉強して松江の進学校に進みました。島民の1/3くらいは島外へ出る感じで。
ミュージシャンになる夢もあったけど、本気でつかみに行こうとはしなかったですね。だから、高校卒業後は食ってくための仕事を選び、大阪の証券会社に就職したんです」。
だが、証券会社は一年で退職。家業である旅館の運営を手伝わないかと兄に誘われていた中村さんは、一念発起して板前修業に出ることに。料亭に住み込みとして働き、夜は寿司屋のバイトを掛け持ちし、3時間睡眠の生活を約3年間続けた。
「みんなより1年遅れてのスタートだったんで、追い込んで修行しましたね。それで独立して、大阪で創作料理の店を任されたのが2003年。それから8年、海士町に帰るまで居酒屋業を続けました」。
“都落ち”で島にUターン。離島ゆえに叶った夢
ステージで演奏する中村さん
音楽がいつも身近にあったという中村さんは東京に滞在していた25歳からの3年間、プロダクションに所属し、音楽活動に打ち込んだ。
「3年という期限を設けて芸能活動に挑戦しました。エキストラですけど俳優をやったり、夜は流しをやったり。とある番組のテーマソングをやらないか、っていうところまで行きましたが、時間切れと生活苦で諦めました」。
大阪に戻り自身の店を切り盛りし、松江では居酒屋のオープニングを手伝うなど、食の道を順調に進んでいた中村さんだが、母親の体調が芳しくないという一報を受け、帰島を決意。しぶしぶ海士町に戻ったという。
お泊まり処「なかむら」。
「島に戻るのは不本意でしたね。『どうせ都会じゃ通用しなかったんだろ』っていう目で見られるのはわかってたんで(笑)。でも、地元に戻っても別に都落ちって言われることはなかったです。
それよりも、建築家と行政が一緒になって海士町を盛り上げようっていう面白そうな計画もあったんで、この島でのし上がってやろうって決めました」。
お泊まり処「なかむら」で竹原ピストルさんと一緒にセッション。中村さんは今も家族でバンドを楽しんでいる。
当時も今も、海士町にはコンビニがない。チェーン系の飲食店もなければ、映画館もない。娯楽といえば居酒屋くらいで、自分たちで楽しみを創り出すしかない島なのだ。中村さんは宿と同じ敷地内に居酒屋を開き、音楽イベントを開催するようになった。
「竹原ピストルさんやウルフルケイスケさんなど、名の知れたアーティストが来てくれるようになりました。時には同じステージでセッションしたり。東京だったらこうはいかない。離島にある小さな店ゆえに都会では叶わなかったことが叶った感じですね」。
2/3