現場で揉まれた社内デザイナーが活躍
特筆すべきはいずれもオーシャンズ世代の玄関に並べて違和感のないデザインワークだろう。技術のある工場はあれもこれもと機能を載せるから、デザインの観点でみればトゥマッチになりがちだ。
ムーンスターが新たに立ち上げたブランドは例外なくデザインワークもこなれている。これこそが目利きをうならせた最大の要因なのだけれど、外部の力に頼ることなく、そのすべてを内製しているというから驚いた。
「21世紀に入ってほどなく、日本のものづくりが見直される機運がありました。この追い風を受けて創業140周年のタイミングで発足したのがライフスタイル企画です。上は33歳から24歳まで。総勢10名ほどが所属するデザインチームです。彼らは絵を描いて終わりではありません。
ステッチ一本とっても現場に入って侃侃諤諤することのできる環境にあり、彼らも現場もその労を厭わない。手前味噌ながら、そこはムーンスターの強みだと思います」(ライフスタイル企画主任、松永健太さん)。
ライスタイル企画が始動した2013年に誕生したのがファインヴァルカナイズだった。文字どおりムーンスターの屋台骨となるヴァルカナイズ製法とその本丸である久留米工場をフィーチャーした。あのフェンディとコラボレーションしたのは記憶に新しいところだ。
現在はロサンゼルスのトータスなど、海外の高感度な店でも扱われている。
エイトテンスも素通りできないブランドである。プロユースのアーカイブを現代の感性でブラッシュアップしたコレクションは多くの業界人を脱帽させた。
ここ数年の攻め手がことごとく成功しているのは、150年という気の遠くなるようなバックボーンの賜物である。
創業者、倉田雲平の衣鉢を継ぐ
明治35年当時のつちやたび店。手前に並ぶのは行商用箱車。
ムーンスターのルーツは倉田雲平が23歳の年、1872年に創業したつちやたび店にまでさかのぼれる。
倉田家は武士の家系だったが、雲平の父は菓子屋でせんべいを売る商人だった。雲平は家計を支えるため、久留米藩の御用長物(衣服縫製)師に弟子入りする。技術の習得に励むも、3年目のある日、あっさりとその世界から足を洗い、足袋に目をつけた。
「ライバルが多すぎる」というのがその理由だったが、けして落ちこぼれではなかった。むしろそれはブルーオーシャンを求めた進取の気象と見るべきだろう。それまで足袋は母親が夜なべして縫うものだった。
長崎有数の足袋職人に弟子入りすると、2年あまりの修業期間を経て独立。雲平生誕の地、久留米市米屋町でつちやたび店を旗揚げした。“つちや”は倉田家の屋号、槌屋から採った。
地下足袋第1号となるアーカイブ。大正11年に完成した。
“精品主義”を掲げた雲平の足袋は高く評価された。勘どころは、長物師として学んだ裁縫の技術を応用したものづくりにあった。その片鱗は弟子の時代にすでにたっぷりとうかがわせていた。師匠も驚くばかりの腕前だったという。
創業してほどなく、つちやたび店に西南戦争という神風が吹く。政府より足袋2万足、シャツおよびズボン下それぞれ1万枚の製造を請け負うのだ。ところが神風は一瞬にしてやみ、海は凪に変わる。
官軍の優勢をみた同業者が一斉に群がったためで、史実によればこの事業の後始末で雲平は無一文になったという。その際に発した「走る者はつまずきやすく、つま立つ者は倒れやすい。堅実なる一歩ずつを進めよ。進めたる足は堅く踏みしめよ」は社訓になった。
はじめの一歩こそつまずいたものの、雲平は職人としてだけではなく、商人としての才覚もあった。鹿鳴館時代の到来を受けていち早く革靴と馬具の製造に乗り出したのも雲平なら、日本ではじめて足袋の量産化を実現したのも雲平だったといわれている。
そうして雲平はゴム底をつけた地下足袋や布靴へと業容を拡大していく。1952年に開催されたヘルシンキオリンピックのマラソン選手が履いたのはムーンスターだった。“マラソンの父”と謳われた金栗四三に認められたのだ。
雲平が67歳で亡くなると、九州毎日新聞は“足袋王逝去す”と報じた。社歌『雲の翼』は北原白秋と山田耕筰が手掛け、未完で終わった胸像は高村光太郎の手によるものだった。
地下足袋や上履きに始まったムーンスターの歩みの道しるべになったのは、すべての人々の笑顔と幸せのために、という信念だった。この信念があったからこそ、ルーミーやエスピーも地に足がついているのだ。
8月28日には東京のフラッグシップストアが自由が丘にリニューアルオープンした(銀座より移転)。新築の匂いがするこのタイミングを逃さず足を運びたい。
[問い合わせ]ムーンスター カスタマーセンター0800-800-1792