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母親の認知症と震災で農家への転身を決意




「母とはずっと離れて暮らしていたので、家族から様子がおかしいと連絡があるまでまったく気がつきませんでした。まだ60代だし、『まさか』と思いました。近所の人にお金を盗まれたと言うようになり、病院に連れていったら認知症と診断されたんです」。

父親は真鍋さんが23歳のときに亡くなっている。真鍋さんは5人兄弟の末っ子だが、諸事情から母親の面倒を見ることができるのは次女か真鍋さんしかいない。

母のそばにいてあげるべきではないか? 日々悩んでいるなか、東日本大震災が起きた。

当時は情報が錯綜し、さまざまな混乱が生じていた。それは真鍋さんの仕事も例外ではない。

「日本から脱出しようとする外国の方たちの航空券手配の仕事が急増したんです。日本を見捨てて逃げ出す人の手助けをしているように感じで、すごく複雑な気持ちでした。そこで外国のお客様に伺うと母国政府から退避命令が出ていると言うので、仕方ないかなと。一方で、日本政府は国民に情報を隠し続け、街中では人々が食料や水を買い占めている……」。

そうした現実を目の当たりにしているうちに、いざとなったら自分の身は自分で守るしかない、そして自分の力で生きるためには、自ら食べ物を作るしかないと感じたという。

農業なら認知症の母親の世話をしながらでもできる。震災から10日ほど経った3月下旬、相模原市の農政課に連絡し、民間の畑の学校を紹介してもらった。これまで農業とは無縁の生き方をしてきた真鍋さん。都内の農業フェアなどに出向き、積極的に情報収集をするも、初めは県の農業アカデミーにすら相手にしてもらえなかったという。いきなり農家になることの高い壁を感じ、一度は農家になることを諦めた時期もあった。しかし、時間をかけて少しずつ農家への道を歩んでいく。

実際の農家の仕事ぶりを見てみたい、そう感じた真鍋さんは、ネットで検索し、実家の近くに有機農業のトマト農家があることを知る。連絡すると「いつでも手伝いにきて」と快く受け入れてくれた。徐々に手伝いに行く頻度を増やし、最終的には本格的に研修生として受け入れてもらえた。



同じころ、農業者となることを志す45歳以下の人に、経営確立を支援する資金として交付される給付金制度、「青年就農給付金」がスタートする。(現在は農業次世代人材投資資金と名称変更)この制度は、真鍋さんが農家になる第一歩を大きく後押しした。

真鍋さんは、22歳から15年以上を過ごした東京を離れ、相模原市の青根に畑付きの平屋を借りる。

「農業を始めるのは、想像以上に大変でした。でも、土に触れていると、『ああ、俺、生きているなー』って実感しました」。

40歳、新たな生活が始まった。





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