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2019.07.30

ライフ

[前編]元千葉ロッテ・荻野忠寛をプロへ導いたのは、体格でも球速でもなく「想像力」

>連載「37.5歳の人生スナップ」を読む

「どうやったら身体の大きい相手に勝てるのか。そんなことばかり、ずっと考えてきました」。



こう語るのは、かつて千葉ロッテマリーンズの中継ぎ・リリーフエースとして大活躍した荻野忠寛(37歳)だ。

プロ野球の投手としては小柄な体をバネのようにしならせながら、マウンドで躍動する荻野の姿に胸を熱くしたファンも多いのではないだろうか。

筆者は、現役時代の荻野の投球フォームを見ながら、運動神経の塊、才能の塊のような印象を持っていた。だが、本人曰く、幼少期から身体的な才能にはまったく恵まれていなかったそうだ。

体育の成績はいつも普通。足も遅く、決して運動神経が良いとは言えなかった。小学校から始めた野球も、ずっと無名。野球の強豪校でプレーした経験もなく、また小・中・高と目立った実績もあげていない。

そんな荻野がなぜプロ野球選手になり、さらに、1軍で大活躍するまでに至ったのだろうか。そこには、幼い頃から養ってきた、『あるチカラ』があった。

 

原点は壁当てにあり


小学生の頃、荻野の所属チームは、週末の2日間しか活動がなかった。野球が大好きだった荻野は、平日に学校から帰宅すると、毎日のようにボールとグローブを持って外に出かけ、1人で練習をしていた。

投手が1人でできる練習。そう、『壁当て』である。



荻野の自宅の庭には、父親が作ってくれた手作りのマウンド、そして、ストライクゾーンと同じサイズの分厚い木の板が設置されていた。いま振り返れば、すごく簡易的なものだったそうだが、親の愛情が詰まったそのマウンドから、荻野は意気揚々と木の的に向かってボールを投げ込んだ。

しっかりと的に当たれば、ボールは正面に跳ね返ってくる。しかし、的を外せば、ボールは草むらの中に消えた。何分もボールを探し、やっと見つけたボールを再び的に向かって投げ続けた。

荻野は、自宅の庭のほかにも、近所に壁当てができそうな場所を10カ所ほど持っていた。その『壁当てポイント』を使って毎日練習に明け暮れた。ある日は、学校に設置されたサッカーゴールのポストをめがけてボールを投げ、また、ある日は、公園の街灯の鉄柱に向かってボールを投げ込んだ。

「おそらく、あの頃から、想像力だけはあったと思うんですよね。想像力を働かせながら、どうやったらうまくなるのかを追求していました」。

今は、ボール遊びが禁止されている公園も多く、野外で自由に運動ができる場所は限られている時代だ。ひと昔前のように、街中で野球をしている少年の姿を見かけることは、ほとんどなくなった。だが、もし今荻野が小学生だったら、いくらでも場所を見つけて練習しているのではないか。

「壁当てだけでも幾つものパターンがありました。凸凹の壁に向かって投げると、壁に当たったボールが転がる方向が毎回変わるんです。だから、投げた瞬間にボールが転がる方向を予測する感覚が自然と磨かれました。また、アウトカウントやボールカウント、ランナーの状況などを設定して投げることもありました。これらの練習が実際の試合ですごく活きたと思います」。



この『壁当て』で養った『想像力』こそが、荻野の野球選手としての土台を作ったのだ。

 

夢が目標に変わるまで


このように野球が大好きだった荻野の将来の夢は、もちろん、「プロ野球選手になること」だった。しかし身体が小さかった荻野を見て、周りの誰もが「無理だろう」と言った。

「多分、周りから見たら、あいつバカなんじゃないのかと思っていたと思うんですよね。それくらいのレベルの選手でしたから」。

そんな荻野の夢が現実的な目標に変わったのは、高校3年生の頃だ。小さかった身体が、次第に周りに追いついてくると、次第に球威が増していくのが実感できるようになっていた。身体の成長とともに、考えながら練習してきたことが、さらに活かせるようになった。高校1年生のときに114km/hだった球速は、高校を卒業する頃には135km/hを記録するまでに成長した。

だが、それでも、高校生の頃の荻野の実力では、プロ野球のスカウトの目に留まることはなかった。一般的に、プロ野球のスカウトが重視するのは、身体の大きさや球速といった、選手が持っている『エンジンの大きさ』だ。いくら身体が周りに追いついてきたとはいえ、身長174cmの荻野に将来性を見い出すスカウトマンが現れなかったのは、無理もないことだろう。



荻野は、さらに貪欲に自分に足りないものを求め続ける。普段の練習だけでなく、食事、自宅で過ごす時間まで、すべての時間を野球に費やすようになっていた。プロ野球をテレビで観ていたある日、解説者がプロ野球の投手に求められる能力について、「ピッチャーは、いつでもストライクが取れる球種を最低2つは持っていなければ通用しない」と言っていた。

すでにコントロールと球種には自信があった荻野は、その言葉を聞いて、自分がプロ野球選手になるための条件の一部をクリアしていることに気づいた。さらに、プロ野球の試合をテレビ観戦しながら、投手たちが投げるボールの球威に着目した。テレビで表示されるスピードガンの表示をみて、プロになるために必要な球威を143km/hと設定した。現状の135km/hから、あと8km/h球威を上げることができれば、プロで投げている人たちと同レベルにいける。荻野は、大学の4年間を使い、1年に2キロ球威を上げていけば、プロ野球選手になれると考えたのだ。

「1年で2km/hということは、半年で1km/h。1カ月では0.2km/h以下。こう思ったときに、これはイケるなと思いました。いま考えれば、そんな単純な話じゃないんですけどね(笑)」。



プロ野球選手になるために神奈川大学に進学した荻野は、その後も成長を続け、大学が所属する神奈川県リーグで、最優秀選手賞を3度も受賞するなど、メキメキとその頭角を現す。大学3年生のときには明治神宮野球大会で準優勝、さらに大学4年生のときには、世界大学野球選手権の日本代表に選ばれ、世界大会で準優勝を果たし。目標とする球威もクリア。能力も実績も積み上げ、いよいよ、幼い頃からの夢が実現するときが訪れることを期待した。

だが、そんな荻野の期待は、脆くも崩れ去った。ドラフト会議で荻野の名前が呼ばれることはなかった。

常人なら、そこで諦めてもおかしくなかったことだろう。だが荻野は、このときですらも、自分がプロ野球選手になることを想像することをやめなかった。

大学の監督に相談したところ「プロに行きたいなら、社会人で結果を出せ。お前は1試合でアピールできるピッチャーじゃない。だから、結果を出し続けろ。プロの世界に入りさえすれば、必ず活躍できる」と言われた。その言葉を信じ、荻野は社会人野球の名門である日立製作所に入社し、再びプロを目指すことにした。その後、荻野は、日立製作所の野球部で2年間結果を出し続ける。そして2006年の大学生・社会人ドラフトで千葉ロッテマリーンズから指名を受け、晴れてプロ野球選手となったのだ。

幼い頃から養われてきた『想像力』が報われた瞬間だった。

[後編]へ続く

 

瀬川泰祐=撮影・取材・文 本人提供=プレー中写真

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