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東大からはドロップアウト。しかし未だに残る当時の“初期衝動”


“オン”になったスイッチに身を任せるまま、ダースレイダーは猛スピードでヒップホップの世界を駆けまわった。

夜は毎晩のように渋谷や六本木のクラブに出かけては朝まで遊び尽くした。日中は音楽雑誌を読みあさり、イベントのチラシを集めてはクラブ仲間と情報交換。インターネットのない時代だからこそ、自分の足で情報を集めた。それはとても刺激的で、今では失われたアナログ的なが良さが確かにあったのだという。

「ひとつの夜を過ごすたびにパワーアップする感覚でした。20年以上前に注入された当時の空気感やエネルギーが、今も僕のなかでうずまいています。あのときの体験をもう一回できないか、人に体験させられないか。それが、今も歌う動機になってるかな」。

遊びながら、ひたすらラップする。そんな日々を積み重ねていたダースレイダーがアルバムデビューをするまで、時間はそうかからなかった。23歳、彼はまだ東大生だった。

「大学在学中の2000年にP-VINEからレコードを出しました。その年は、ドラゴンアッシュやリップスライム、ニトロマイクロフォンアンダーグラウンドが続々とアルバムをリリースした年で、日本もヒップホップが市民権を得つつあった過渡期だったんですよね。僕も翌2001年にはエイベックスのカッティング・エッジに移籍、その後はビクターに行ったり、バタバタした時期でしたね」。

すでに音楽で収入を得ていたダースレイダーは、「俺、このまま行けるんじゃね?(笑)」という甘い思いを胸に東大をドロップアウト。音楽一本の人生がスタートした。


抜けない肩こりは危険信号。世界がぐるりと回転し、死にかけた日




ダースレイダーが自主レーベル『ダメレコーズ』を立ち上げ、KEN THE 390や環ROYといった新人ラッパーたちの曲を「1000円シリーズ」と題して売り出すと、タワーレコードのインディーズチャートで1位になるという現象が起きた時代もあった。

イベントへのオファーも絶えず、忙殺される日々。知名度と仕事量が増すにつれ、次第に慢性的な肩こりを感じるようになっていたという。

「肩がずっと凝っていたのは、疲れているからだろうと思ってたんですが、2010年のある夜、司会で呼ばれた青山のクラブのトイレで異変が起きました。出番前にトイレで鏡を見ていたら、文字通り世界が『ぐるり』と回転したんです」。

平衡感覚を失い、そのまま倒れ込んだダースレイダーはすぐに強烈な吐き気をもよおし、便器に思い切り嘔吐した。吐いて、吐いて、胃液しか残らないほど吐いても、吐き気は止むどころか悪化するばかり。一過性ではない。今まで一度も経験したことのない“何か”が自分の身に起こっている。そう理解したときには、もう思うように口も利けなくなっていた。

クラブにいた仲間たちからは急性アルコール中毒を疑われたが、酒は一滴も口にしていない。しかし、それさえ言葉で伝えることができない。そんなとき、その場のひとりが「危険シグナル」に気づき、ダースレイダーは仲間のDJの車で近くの救急病院まで運びこまれた。

担当医によると、あと30分搬送が遅れたら死んでいたかもしれない、まさに瀬戸際の状況だったという。告げられた病状は「脳梗塞」。それから3週間は寝ても覚めても揺れまくる船に乗り続けているような感覚が抜けず、常に吐き気に苦しみ続けたという。



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