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2019.07.07

あそぶ

絶望からの生還。視力を失った柔道家・初瀬勇輔が見るTOKYO 2020の先

前編の続き。
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現在、視覚障害者柔道で2020年東京パラリンピックへの出場を目指し、日々練習に励んでいる初瀬勇輔(38歳)。 鈴木純平=撮影


ついに両目の視力を失った初瀬は、それまでできていたことが、一切出来なくなってしまった。お見舞いに来てくれた友達の顔はおろか、自分の母親の顔すらも認識できない。

病院食が出ても、箸を使うこともできない。歯ブラシに歯磨き粉をつけることもできなくなっていた。幼稚園の頃の自分ですら、1人でできていたことができなくなったことに、大きなショックを受けた。
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「それまでは、周りの仲間と一緒のレーンを歩いてきたつもりだったんですけど、僕だけレーンから降ろされてしまった感じでした。死んだほうがマシだって思っていた時期もありました」。

そんな初瀬に3度目の大きな転機が訪れたのは大学4年生のときだった。周囲の協力もあり、なんとか大学を卒業できる目処はたっていたものの、その後の進路は決まっておらず、未来はまったく見えない鬱蒼とした日々を過ごしていた。

そんなときに出合ったのが視覚障害者柔道だった。当時の交際相手に「柔道をもう一回やってみたら?」と勧められたのだ。そう言われたとき、初めて目の悪い人のための柔道があるということを知った。



視力を失ってから、半ば引きこもり状態だった初瀬は、意を決して視覚障害者が指導している道場に電話すると、道着さえあればいつでも来ていいという。そこで、大学の生協で柔道着を購入し、埼玉県にある道場まで出向いて、約7年ぶりに柔道着に袖を通した。

「あの頃は、何かやらなきゃって思っていても、何もできずにいた時期。だから、藁にもすがるという思いだったのかもしれません」。



道場に行ってみると、畳の上には段差もないし、障害物もない。普段、目が見えないなかで街を歩くよりも、はるかに安全だと感じた。

「これならできる」。

こう感じた初瀬は、視力を失って初めて、打ち込めるものを見つけた。いつも「情けない」という感情で支配されていた心に、久しぶりに「嬉しい」「悔しい」といった感情が湧き上がってくるのを感じることができたのだ。

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視覚障害者柔道で、一躍トップ選手へ


視覚障害者柔道は、健常者が行う柔道とは異なり、お互いに組んだ状態から試合がスタートする。このため、一本で決まる試合が9割を超えるという。そんな視覚障害者柔道の魅力について、初瀬は次のように語る。
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「組み手争いがないんです。お互いが組んだ状態で試合が始まるので、いつ投げるか、いつ投げられるかわかりません。リードしていてもいつ逆転されるかわからないし、逆にリードを許していても、残り1秒で大逆転ということもありえます。最後の最後まで勝負がわからないスリリングな競技と言えるでしょう」。

視覚障害者柔道の魅力にとりつかれた初瀬は、3カ月間練習に取り組んだのちに、視覚障害者柔道の全日本大会に挑む。すると見事に、オール一本勝ちで優勝を果たす。そしてこの優勝によって、翌年6月にフランスで開かれる世界選手権、11月にマレーシアで開かれるフェスピック競技大会(現在のアジアパラ競技大会)の日本代表に内定した。


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「昨日までまったく予定がなくて、何していいかわからなかったのに、急に“来年の世界大会の日本代表に入れるから合宿に来てね”って言われて。目が悪くなって初めて目標ができ、僕のカレンダーの予定が埋まったんです」。

それまで初瀬の目の前に広がっていた暗闇に、強い光が差し込んだ。初瀬を取り巻く環境が一変した瞬間だった。



翌年の6月に行われた世界大会では1回戦で敗れたが、続く11月のフェスピックでは金メダルを獲得。これにより、2008年の北京パラリンピックの出場権も獲得した。10万人の観客が見守る中で、開会式の入場行進をしたときの様子をこう語る。

「すごかったですよ。まるで拍手の雨の中にいるような感覚。鳥肌が立ちました。目が見えなくなって良かったなんて思うことはほとんどないですけど、パラリンピックに出場できたことはそのひとつだと思います。心の底から障害者である自分を肯定できた瞬間でした」。

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