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テリエは92年に初優勝を果たすと飛ぶ鳥を落とす勢いでハーフパイプ王者となり、フリースタイルシーンの頂点に君臨。その後、長野五輪をボイコットする騒動に至るわけだが、クレイグは単に王者の座を明け渡しただけではなかった。当時はコンテストがメインストリームであり、まだ20代半ばだったにもかかわらず競技から身を引き、新境地を開拓したのだ。

フィールドをバックカントリーに移行し、フォトグラファーやビデオグラファーと帯同するようになった。自身の存在をどのように活かせばスノーボード界の発展に寄与できるのかについて深く考え、コンテストで勝つための滑りではなく、スノーボーディングのクールさを表現する価値を提唱したのだ。雑誌の表紙を飾り、テレビコマーシャルに登場するなど、クレイグはスノーボード界の顔に。これが今日まで受け継がれている、競技性よりも表現力を重んじるプロスノーボーダーとしての生き方の礎であり、プロスノーボーダーという生業を生み出したわけだ。

「クレイグに報奨金制度はマズかった……」

クレイグのスノーボード人生を収録した映画『LET IT RIDE』内で、ジェイクはこのように笑いながら語っている。彼の露出が増えれば増えるほど、BURTON製品は飛ぶように売れた。ボード設計やマテリアルなどすべてを理解していたクレイグは、プロダクトに対しても的確なフィードバックをもたらしていたのだ。冒頭でジェイクの右腕と述べた理由である。

クレイグが道なき道を開拓したことで、雑誌や映像での露出に広告としての価値があるという文化価値が醸成された。ライダーたちは各ブランドとインセンティブ契約を結ぶことで、大会で勝つことだけが生業ではない、現在のプロスノーボーダーというフォーマットが築き上げられたわけだ。

東京五輪スケートボード・ストリートで金メダルを獲得した堀米雄斗が「コンテストよりもビデオパート」と発言した真意であり、國母和宏ら業界内で“ムービースター”と称されるプロスノーボーダーたちが存在する理由でもある。


記事提供=FINEPLAY

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