当記事は「FINEPLAY」の提供記事です。元記事はこちらから。 text by Daisuke Nogami / photo by Vianney Tisseau
スノーボードが産業として確立したのは、リーディングブランドであるBURTON創始者、ジェイク・バートンの功績が大きい。そのサクセスストーリーを語るうえで、絶対に欠かすことができない重要人物が本記事の主役だ。
ジェイクの右腕とされた伝説のスノーボーダー。そのレジェンドはスノーボード文化のフォーマットを生み出したと言っても過言ではない。2003年1月20日、カナダ・ブリティッシュコロンビア州レベルストークのバックカントリーでのガイド中、雪崩に巻き込まれて他界してしまったクレイグ・ケリー。享年36歳だった。
1960年にスノーボードの前身とされているSNURFER(スナーファー: SNOWとSURFERの複合語)が登場し、それに感化されたジェイクは1977年に脱サラしてBURTONを創業。スノーボードを世に広めるため、1982年に「BURTON US OPEN」の前身である「NATIONAL SNOWBOARDING CHAMPIONSHIPS」を米バーモント州スノーバレーで開催した。この前年にコロラド州で開催された大会が世界初のスノーボード競技とされており、その大会でジェイクは3位に輝いている。US OPENは今シーズンより形を変えることになったが、コロナ禍直前の2020年まで39年の歴史を刻んできた伝統の一戦である。
1998年の長野五輪でスノーボードがオリンピックデビューを果たす10年前、1988年にUS OPEN初となるハーフパイプ大会が行われた。それまではタイムレースのアルペン競技が主流だったのだが、スケートボードからインスパイアを受けながらフリースタイル競技であるハーフパイプがコンテストの主役となっていく最前線に、クレイグの存在があった。
1986年から4年連続で世界チャンピオンに輝いていたクレイグは、89年にハーフパイプで初優勝。翌年も優勝して連覇を果たすことに。その90年大会には、FIS(国際スキー連盟)が運営するオリンピックのスノーボード競技に対して中指を立て続けているテリエ・ハーカンセンが初出場していた。ここがスノーボード界の大きなターニングポイントとなる。
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