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真冬でも湘南に通った電車サーファー時代


プロサーファー 牛越峰統さん ●1971年、東京都生まれ。中学1年生でサーフィンを始め17歳でJPSA公認プロへ。2003年、JPSAグランドチャンピオン獲得。’09年、引退。’10年、JPSA理事長就任。’18年、同理事長退任。千葉・太東海岸でサーフショップ「U4SURF」を営む。

プロサーファー 牛越峰統さん ●1971年、東京都生まれ。中学1年生でサーフィンを始め17歳でJPSA公認プロへ。2003年、JPSAグランドチャンピオン獲得。’09年、引退。’10年、JPSA理事長就任。’18年、同理事長退任。千葉・太東海岸でサーフショップ「U4SURF」を営む。


プロサーファーとは、格好いい存在である。その思いはサーフィンへの愛情が深いために生まれる。さらにショートボードにこだわる理由は過ごしてきた時代に求められる。

キャリアを紐解けば、兄たちの影響を受け中学1年生でサーフィンを始める前からずっと、日本のサーフィンはショートボードが主流だった。その中でプロとして腕を磨き、日本の頂点を極めた。世界の舞台にも挑んだ。

最高峰のツアー入りを目指して二次ツアーを何年も戦い、ハワイ・オアフ島のパイプラインで開催される「パイプラインマスターズ」や、腕自慢のビッグウェーバーたちを集めて行われたビッグウェーブの世界大会にも参戦してきた。

世界的なサーフシーンでしのぎを削り、身を起こしてきた背景があるから、ショートボードは身体の一部と言えるまでの存在となった。だから目を輝かせ愛用ショートボードについて話す姿には、サーフィンに魅せられ夢中となっていた少年時代を想起させる熱があった。

牛越プロの出身は海から遠い東京・調布。17歳で千葉に拠点を移してからは、外房の海で地元のサーファーたちと切磋琢磨していったが、それまでは週末に湘南へ通う電車サーファーだった。

「土曜日は午前中だけあった中学校の授業が終わると、サーフボードを抱えて小田急線に飛び乗り海に向かいました。片瀬江ノ島駅まで約2時間。着いたら即行で着替えて海に入り、夕暮れまでサーフィン。そしてその日はだいたいボードケースを寝袋がわりにして海に泊まっていました。

日曜日も夜明けからサーフィン。だから土日はずっと海に入っていましたね。湘南は内湾なので沖からのうねりが入りづらく、波の小さい日やフラットの日もありましたけれど、それでもずっと海の中。ただ楽しくて楽しくて。帰りなんてクタクタで、車内では立ちながら寝てました」。

冬用ウエットスーツを買う余裕はなかったが、それでも海に通った。

「ボロボロのおさがりを着ていました。穴があいたら普通の糸で修繕して。真冬にスプリングという半袖半パンタイプのウエットスーツを着ていたときもあって、もう震えちゃってね。

雪の日にも海へ行って、霜焼けで顔を赤くしながら帰宅した僕を見て母親が『あんた、そんなにサーフィン好きなのかい』と言ったのを今でも覚えています。ひたすらにうまくなりたい。当時は、その一心だったのだと思います」。

地元には「カクテルシャワー」というサーフショップがあり、面倒を見てもらっていた。当時のサーフショップは今でいうコミュニティ。いろんな地域の年齢の異なるサーフィン好きが集っていた。

年上のショップメンバーの動向を見ていると自分の未来もぼんやりと見えてくる。大会出場はそのひとつで、伊豆・白浜ビーチで催されたローカル大会が人生最初の試合。サーフィンを始めて2年目くらいのときだった。

以降、試合出場の機会が増えていく。兄に連れられて千葉に練習をしに行くなど経験を積んで着実に力を伸ばし、高校1年生で全日本サーフィン選手権の舞台を踏み、17歳でJPSAの公認プロに。電車サーファー4年目の出来事は、情熱と人並み外れた練習量、優れた身体能力の賜物だったと言っていい。


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