「腕時計と男の物語」とは……学生時代はダイビングに熱中し、夏は離島に渡って、ダイビングサービスを兼ねた民宿のアルバイトに明け暮れた。でも目指したのは海中でも、求めたのはその先の世界だったのかもしれない。
海の底から時折海面越しに揺らぐ太陽を仰いだ。それは手を伸ばせば掴めそうでいて遠い、自分と世界をつなぐ光だったのだ。
そんな生活も卒業が近づいたある夜、宿の主人が飲みに誘ってくれた。モラトリアムの終わりを怖じ気づいている僕を見透かしたのだろう。
「俺なんか、もう海藻みたいなもんよ。潮に任せてユラユラ、ユラユラ。そりゃこのままでいられれば楽しいさ。でもいつか夏は終わるんだ」。
主人もかつては島一番の潜り手だったが、若い頃に引退し、以来ずっと宿を切り盛りしている。酔った勢いもあってその転機についてたずねた。
わかった、ついてきな。そういうと主人は、僕を物置代わりの漁師小屋に連れていき、奥から何かを出してきた。古い銅製のヘルメット式潜水具だ。
「親父が使っていたものさ。その姿に憧れて俺も一緒に海に出た。でも事故があった。悔やんだけれどそれが海で生きるということさ。ただ俺は周囲を悲しませたくなかったし、そうならないように守る側になろうと思ったんだ」。
潜水具は誓いの象徴でもあり、守護神でもあった。夜の浜辺で月に照らされ、それは輝いて見えたのだ。
あれから20年以上が経ち、ふと覗いた時計店で見かけたのが「
BR 03-92ダイバー レッド ブロンズ」だ。四角いケースに丸いダイヤルの組み合わせはダイバーズウォッチでは珍しい。
しかもブロンズという素材に丸く設けたダイヤルが、月明かりに浮かび上がったあのヘルメット式潜水具の記憶を甦らせた。覗き込めば丸いガラス越しに海中の世界が広がるようだ。
使い続けるほどブロンズは経年変化し、小傷とともに風格を増していくだろう。それは自分が育んだ世界に一本の価値であり、赤銅色を思わせるダイヤルやベゼルとも美しく調和するに違いない。迷わず手に入れた。
ひと夏を島で過ごし街に戻った僕は、真っ黒になった肌の皮もむけ、その色も褪せた頃、社会という大海に出た。そこには島の海とは違う厳しさがあった。でも海底から仰ぎ見た光はこの手に掴むことができた気がする。そしてこの時計があれば、いつだってあの夏に戻ることができるのだ。
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