──23歳で実際に家業を継ぐことになりました。最初の「どん底」に近い時期でしたが、どう上昇していったのですか。実家には小さな工場が残っているだけで、全くゼロからのスタート。ただ持ち前の行動力とポジティブな性格が功を奏して売り上げを伸ばすのにはそう時間はかからなかった。
「屋根屋」って、建設業のなかでも金額的に小さい市場なんよ。まず住宅の屋根の施工から始めたけど、労力の割に対価が見合わない。だけど生きしのぐため、拡大路線を続けて現場で働きながら積極的に営業すると、右肩上がりに受注が増えて、年商60万円から倍々に大きくなってピーク時には6億円までいった。でも九州で2番目の規模になっても、全然嬉しくなかったね。
結局、ゼネコンの下で頭下げる日々で、この業界に嫌気がさした。それに伸びていけばいくほど怖いんよ。がむしゃらに事業拡大に突っ走ってきたけど、綱渡りみたいなことをやってるわけ。ひとつ案件が取れないと、寝られんようになった。夜、従業員の顔が思い浮かんでくるんよ。いつクビにしなきゃいけないのか、と。
──事業を拡大していった時のモチベーションは?途中でいろいろ気づくわけよ。事業はでかくなったけど、所詮は九州での話。下請けやけど、根っこを知りたくなって受注元を辿って行くと、ほとんど東京で決まっていることがわかり始めるわけさ。
そこで地方にいることはハンディキャップだと気づき、東京にアンテナを張るようになった。東京に一発打って出るかと思っても、つてがなくてできない。「屋根屋」であり続けたとしても、とにかく下請けから脱却するにはどうしたらいいか?と常に頭の片隅で考えていたね。
──30代は事業拡大期だったと思いますが、プライベートはどうでしたか。28歳で結婚して、長女、次女、長男がいる。子どもの誕生日の記憶がないほど、仕事のほか青年会議所も入っていたのでほぼ家に帰れなかった。
女房も商売をしているので、子どもの面倒をみていたのは祖父母。それでも大きな問題もなく育ち、皆成人して自立している。子どもによく言われますよ。「お父さん、お母さんは産んだだけ。育てたのはおじいちゃん、おばあちゃん」って。
──41歳の時に、ついに下請けからの脱却を目指して本格的に動かれますね。一番の「どん底」期からどう上がっていったのですか。順調に業績を伸ばしていたが、社会情勢から次第に企業の設備投資などが激減し、建設業が冬の時代に。同時に下請けによるストレスが増し、経営危機に見舞われた。
そこで2006年に下請けの仕事を一切受けないようにしたんよ。従業員は出社してもやることがないから掃除ばかり。だけど、一番低迷した時期は案外短かったかな。
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