運命を決めた妻のひと言「スケボーでジュエリーを作れば?」
部活を引退し、再びスケボーに熱中していったHAROSHIさん。当然、ストリートにはグラフィティライターも大勢いたが、意外にも自身がグラフィティの世界に足を踏み入れることはなかった。
「やっぱり、当時のストリートやヒップホップカルチャーはバイオレンスが身近にあって、それに対する拒否感がありました。僕は純粋にスケボーが楽しみたかっただけなんです」。
やがてアートの世界のド真ん中に身を置くHAROSHIさんだが、当時はグラフィティどころか、アートそのものと無縁だったといっていい。
では、アーティストとしてのルーツはどこにあるのか。
「僕自身、もともとアーティストではなくクラフトマンだと思っていて。高校を卒業してジュエリーの勉強もしたし、最初に就職したのはジュエリー関係の会社で、“ジュエリークラフトマン”というプライドがあったんです。でも、どうしてもその仕事は“量産”なんですね。何十個も同じのを作らないといけないことが、本当に自分がやるべきことなのか? と思うようになっていったんです」。
「ひとつひとつ違うものを作ったほうが、絶対にいい」――。
そう考えたHAROSHIさんは、木材を使ったジュエリーの製作を始める。そのとき、当時の恋人(現在の妻)が、自宅に山積みになっていたスケボーを見ながら言った「それでジュエリーを作ればいいんじゃない?」のひと言が、HAROSHIさんのその後の作風を決定づけた。
「でも、実際に作ってみたらあまり売れなかったので、ジュエリーをよく見せるために、立体作品や壁掛けなんかを作っていたら、『それがほしい』って言われるようになって、『いいじゃん。個展しないか』って声をかけてもらうようになったんです」。
そしてオリジナル作品は世界へ羽ばたいた
こうして、徐々に“クラフト”が“アート”と見做されていったHAROSHIさんだったが、手応えはほとんど感じられなかったそうだ。
「誰も相手にしてくれなかったし、周りをよく見ると、ヘリングやバスキアのように世界で評価されているストリートのアーティストが、日本にはひとりもいないことに気付きました」と当時を振り返る。
「そもそも日本の土壌で勝負していても、一生彼らのようにはなれない」と考えに考えて出した結論は、「海外のギャラリーで作品を発表して、世界中の人に見てもらわなくてはダメだ」というものだった。
知人のツテを辿ったHAROSHIさんは、ニューヨークの有名なギャラリストとの接触に成功。すぐに才能を見い出され、アーティストとして契約も勝ち取った。2009年のことだ。
翌年にはニューヨークで個展も開催。ロサンゼルスやロンドンも巡回し、世界に一躍その名を轟かせる。当時のナイキのCEO、マーク・パーカーから直々に「ダンクの彫刻をスケボーで作ってほしい」と依頼を受けたこともあった。
「しばらくはそこのギャラリーをベースにした活動は続きましたが、そこでの6年間でみんなが作品に飽きていくのも感じたし、その間にストリートアートのブームが去ったなんて言われていました。最後には所属していたギャラリーも破産し、作品の発表の場を失って、『そろそろ本当の自分自身の作品を作らないとダメだな』って意識し直しましたね」。
それまではスニーカーや動物など「すでに在るモノ」を模刻することが多かったが、その後はナンヅカアンダーグラウンドの南塚真史氏のアドバイスも得て、本当の意味でのオリジナル作品を制作。
「自分が『カッコいい!』と思う人形型の像を作ろうと思って、まずは『GUZO』っていうシリーズを作りました」。
「GUZO」は広く注目を集め、その評判は再び海外にまで飛び火。さらに、使い終わったスケートデッキを並べ直し、スケーターたちの個人史とスケートボードカルチャーの総体を絵画として構成したモザイク平面作品「Mosh Pit」など、精力的にオリジナル作品を制作し、発表した。
その作品の一部は、現在開催中の個展「I VERSUS I」で展示されている。
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