「恐怖心」を飼いならし、世界一に
その後、12歳のときに早くも世界デビュー。トランポリンの世界ジュニア大会に出場し、銀メダルを獲得した。順風満帆のスタートに見えたが、中学生になるとスランプが極端に悪化する。実は外村さんは、トランポリン選手としては致命的な爆弾を抱えていた。
「端的に言うと、トランポリンで飛ぶことに恐怖心を抱いてしまったんです。トランポリンの跳躍は高いからスリルがあるのは当然のことで、最初はそれをポジティブなものとして受け入れられていた。
だけど、7歳くらいのときに技の感覚が狂うようになって、スランプに陥るようになりました。例えば宙返りをするときって上で1回くるりと回って下を見ながら着地するのですが、半回転しかできずに空中で天井を見ている自分がいる。
その1秒にも満たないはずの時間を何十秒にも感じて、『なにをやってるんだろう』『どうしよう』と焦っているうちにマットに落下し、顔面に自分の膝が降ってきて我に返る、みたいなことが続きました」。
もし首から落下していたら……と想像すると怖かったし、なぜ宙返りができなくなったのかわからないのも怖かった。
これは「ロストトリックシンドローム(技の喪失症)」と呼ばれる症状で、一般的な競技者が競技人生において一度経験するかしないかというもの。外村さんの場合、それが年に1、2度もあり、しかも頻度は年々増していった。
「ロストトリックシンドロームには治療法がなく、トランポリンの先生も『怖がるんじゃない』『とにかく練習しなさい』としか言ってくれない。自分でなんとかするしかなかったので、あれこれ試行錯誤しながら対処法を考えました」。
例えば1回の宙返りを1/4に細分化してイメージトレーニングしたり、本当はトランポリンの周りにマットを敷いていないのに『マットを敷いてるから落ちても大丈夫』と言い聞かせて自分の脳を騙そうとしたり。
そうやって恐怖心に向き合いつづけた結果、高校卒業時には回復の兆しが見えるようになっていた。恐怖心がなくなったわけではないが、対処の引き出しが増えたことで恐怖心をコントロールできるようになった。この頃から外村さんの快進撃がはじまる。
2003年、19歳のとき世界選手権大会に初出場。2005年の世界選手権大会では日本史上初の全種目メダル獲得に尽力する。さらに2007年の世界選手権大会で初優勝し、子供の頃からの夢だった「世界一」を実現。もはやオリンピックも夢ではなかった。
念願だったオリンピックへの出場
2008年4月、同年の夏に開催される北京五輪への出場が正式に決まった。そのときの気持ちを外村さんは「夢見心地だった」と振り返る。
「オリンピック出場は自分にとって『想定内』の目標のはずだったのに、いざ決まるとめちゃくちゃうれしくて。吉報を手にしてから、北京五輪が開催されるまでの4カ月間、ずっとふわふわしていました(笑)」。
当時のコンディションは良く、恐怖心もほとんどなかった。本番が近づくにつれてリラックスを心がけながら調整し、北京へ入った。そうして迎えた競技当日。外村さんは予選を5位で通過する。
「予選では第一演技、第二演技と2回演技をするのですが、第一演技は肩に力が入ってしまい、9位になってしまったんです。8位以上でないと決勝には進めない。そう思うとショックで、当時ふわふわしていた僕にはいい薬になったんですね。おかげで第二演技はほぼ練習通りの納得のいく内容になり、5位まで追い上げることができました」。
3日後の決勝は、演技の美しさと技の難易度が両方必要になる予選の第二演技と同じルールで行われる。予選の第二演技ではあれだけうまくできたんだから、決勝もいける。外村さんは優勝も視野に、決勝で「世界一美しい」と評される演技と数え切れないほど練習してきた技を披露した。
結果は、4位。惜しくもメダルには手が届かなかった。
「予選の第二演技のときのベストなメンタルを、決勝まで維持できなかった。あるいは、メダルを意識するあまり練習に力が入りすぎて疲れてしまった。いろいろと理由はありますが、とにかく実力を出し切ることができなかったんですね。その意味で、ずっと夢見てきた五輪への初出場は不本意な結果に終わりましたが、自分の今後に活かすという意味ではとても良い経験になったと思います」。
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