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アメリカ本土でのムーヴメント

その数年前の1967年、サンフランシスコ中心部にある狭く起伏の多い地域に約10万人が集まった。彼らを団結させたものは、1950年代と60年代に主流だった理想論への反発と、アレン・ギンズバーグ、アン・ウォルドマン、ジャック・ケルアック、ウィリアム・S・バロウズをはじめとするビートジェネレーションの詩人や作家の呼びかけだった。
ベトナム戦争はもう何年も激しさを増しており、アメリカの若者が戦争で使い捨てにされていることにも長年疑問が呈されていた。「大地へ帰る」生き方や真の一体感や自由を得たいという思いのもと、「フラワーチルドレン」たちは「サマー・オブ・ラブ」活動に集結し、高い意識を持って新たな考え方を育みたいという願いでまとまっていた。
だが、愛と一体感、エコロジーという理想を掲げていたはずが、サンフランシスコに集結した人々の大半は公平な視点や自覚を失って、犯罪や精神的堕落や薬物依存に染まっていく。約10年後にカウアイ島の小さなマクアビーチで起きたのも、規模は小さいものの、これと同種の問題だった。

サマー・オブ・ラブ活動の勢いが弱まって、活動自体もなし崩しになる中で、挫折を感じた人々は太平洋のカウアイ島へ逃れていく。テイラーキャンプの初期メンバーも、滅びゆくアメリカンドリームからの避難民であり、英雄だったマーティン・ルーサー・キング・ジュニアとジョン・F・ケネディを暗殺した世界から逃れてきた人々だった。
1969年当時、ハワイのプランテーション産業は崩壊しつつあり、島の人口も減少していた。空き家も増え、マンゴーやバナナの木を育てる人もいなくなったため、枝は熟した果物でたわんでいた。ローム質の土壌で育った果物は栄養たっぷりで、違法と知りながら貴重な栄養源として勝手に採取する人もいた。
ほかにも理想的な資源があった。解体してすべて持ち去るという規定のもとで、キラウエアプランテーションが売却した家屋だ。100ドル出せば家中の建材が手に入り、家屋のある土地を片づけるとさらに50ドルの値引きが与えられた。この建材で「大きなツリーハウス」を建てる。それが、テイラーキャンプ共同体の目論見だった。
ベランダの大きな窓は、全長約100フィート(約30メートル)の壁全体から太陽光や月光を取り込む空間へと生まれ変わり、家の中にはかけがえのない瞬間が生まれる。カマニ製のひさし越しに、各部屋にも光が挿し込む。また、ツリーハウスの多くで半透明のプラスチックを重ねた屋根が使われていたため、そこからも光が入ってくるのだ。


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