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映画漬けの生活を卒業し、CMプランナーに

中学・高校生になると8ミリやビデオを回して友人と映像作品をつくるようになったが「映画監督」を職業として捉えることにはピンとこなかった。当時は映画学校もまだ少なく、映画監督になる方法がいまいちわからなかったからだという。加えて言えば、お勉強ができたからだ(本人はそうは言わないけれど)。
「大学って、建築学部なら建築、文学部なら文学と、多くは入学した時点で進路がある程度決まるじゃないですか。無理だな、と思いました。まだ17才なんで決められません、と。当時の自分はいろいろなことに興味があったというか、何も定まってなかったし。で、東京大学なら入学後に学部を選べると聞き、受けようと。数学が得意な高校生だったので、数学の力で東大へ入りました」。
入学後は興味のあった建築学科の授業を受けたが、手先が不器用で製図がうまくできずにあっさり断念。そこで、ずっと好きだった映画を勉強しようと、映画評論家の蓮實重彦氏の授業を受けるべく文転した。
にもかかわらず、授業をさぼって映画館に通うばかりの学生生活。3年生になると、フランスの超難関かつ名門の国立映画学校「FEMIS(フェミス)」を目指すようになり、休学して渡仏してしまう。
「フランスでは受験勉強をしながら、やっぱり映画館に通って映画を見て。1年半パリに住んで、フランス語は話せるようになったけれど、受験には失敗して日本に帰ってきちゃいました。せっかくフランスにいたんだからほかの映画学校に行けば良かったのかもしれないけど、そのときはどうしてもフェミスに行きたかったので」。
パリで暮らしていた頃の荒木さん。写真提供:荒木伸二
日本の大学に復学すると、周囲の学生は就職活動をしていた。荒木さんも就職先を探しはじめるが、当時、映画会社の新卒採用はほとんどなく、テレビ局はエントリーの受付が終わったあとだった。そんななか、なんらかのかたちで映画に関われるかもと目をつけたのが広告業界だった。
「当時、広告業界にはバブルの残り香があって、CMをつくるのに市川準さんや相米慎二さんといった映画監督を起用し、35ミリフィルムを回す、みたいに贅沢なことをしていました。それを知って、おもしろそうだな、と」。
無事に広告代理店に入社した荒木さんは、CMプランナーとしての道を歩みはじめた。ただし、CMプランナーの役割は、企業から依頼されたCMを企画し、制作者に発注すること。企画はするが、映像をつくる人を“選ぶ立場”であって、“つくる側”にはなれない。その事実に入社早々気付いたが、仕事は楽しかった。
「今思えば激務だったけど、景気が良いからずーっとお祭り騒ぎみたいな感じで。映画をつくりたいという気持ちは変わらずあったけど、仕事で手一杯でした」。
そんな生活と心境に変化が訪れたのは、30代後半になった頃。父親が亡くなり、東日本大震災が起こったことがきっかけだった。
「人って本当に死ぬんだ、俺もそのうち死ぬんだな、と思って。ちょうど同じ時期に別の広告会社に転職し、結婚したこともあって、平日の夜や週末に時間ができるようになったんですね。やり残したことがあるならそろそろやんなきゃと、自分を急き立てるようになりました」。


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