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30歳手前でボード作りを始めた

シェイプルームにて photo by Kazuki Murata
――「波と音と風の旅」を終えてからは、どうしていたんですか?
武藤 CAVE surfboardsの矢貫直博さんに出会って、サーフボード作りを始めた。当時住んでいた家の近くに、矢貫さんのボード工場があってさ。興味本位でボード作りを見学しにいったら、たちまち魅了されちゃったんだ。それが29歳の頃。
ピン留めされたオーダー用紙 photo by Kazuki Murata
――どんなところに魅力を感じましたか。
武藤 人間性や独創性はもちろんだけど、技術力だね。矢貫さんは、いわゆる「シェイプ」っていうボードの輪郭を削っていく仕事だけじゃなくて、「サンディング(磨き)」や「グラッシング(樹脂付け)」といったボード作りの工程を、全て一人でこなす「ボードビルダー」。
理想のボード作りを目指して、道具すら自分で作っていく。そんな矢貫さんの姿勢を間近で見て、「この人に教えてもらいたい」って思った。
ボード用の定規 photo by Kazuki Murata
――強く影響を受けているんですね。ボードに変わった名前を付けているのも、そのせいですか?
武藤 そうだね。というより、矢貫さんは「名前を付けたくない」って言ってた。「削ってるボードが毎度違うから、モデル名を付けても意味がないんだ」って。
ただ、俺はカタログを作りたかったから、どうしても名前をつけなきゃいけなかった。だからあまり考えずに、頭にパッと浮かんだ言葉を付けていったんだ。「OPPAI」とか「PAFU PAFU」とか。
鉋がけ photo by Kazuki Murata
――なるほど。合点がいきました。
武藤 電話で注文してくる人は、戸惑ってるけどね。「お、オッパイ、できますか?」って(笑)
――誤解されそうですね(笑) でも名前はともかく、ボードの色が綺麗で素敵だと思います。
武藤 個人的に、クリアーなボードより色彩豊かなボードの方が好きだから、力が入るよね。
樹脂に塗れた作業靴 photo by Kazuki Murata
――ハンドクラフトの610-changですが、マシンシェイプについて思うところはありますか?
武藤 肯定的だよ。マシンシェイプの板にもすごく興味を持ってる。ただ、ハンドクラフトのボードはこれから希少になってくるだろうから、手で作る技術も大切にしていきたいね。
photo by Kazuki Murata
――ということは、これから競技用のボードを作る予定が?
武藤 あるよ。俺の息子たちや、近所の子どもたちが成長するにつれて、コンペ用のボードが必要になってくるだろうから、そこで削っていきたいね。あと周にも乗ってもらいたい。いっしょにスキルを伸ばしていけたら最高だね。

厳格な父に育てられた幼少期

萩原周 photo by Kazuki Murata
――ここからは「610SURF BOARDS」ライダーの萩原 周くんに、610-changに出会うまでの話をお聞きします。よろしくお願いします。
萩原 はい。お願いします。
――周くんは、茅ヶ崎市の生まれですよね。いくつからサーフィンを始めたんですか?
萩原 4歳です。サーファーの父から手ほどきを受けて、姉弟でやっていました。
幼少期 photo by Kazuki Murata
――小学2年生のとき、家族で宮崎県に移住していますよね。
萩原 はい。父の判断で移住しました。宮崎は波がいいから、サーフィンを上達させるには、うってつけだったんだと思います。ある日突然、「宮崎に行くぞ!」って言われて。旅行だと思っていたら、移住だった(笑)
萩原周 photo by Kazuki Murata
――その頃からプロサーファーを目指していたんですか?
萩原 僕はまだ小さかったから、ただ楽しくてサーフィンをしていたけど、父はプロにさせたいと考えていたと思います。車で海まで連れて行ってもらって、毎日、特訓してました。
――お父さんは厳しかったですか?
萩原 厳しかったですね。よく海から浜に呼び戻されて、叱られていました。サーフィン中、僕らがいる沖には声が届きにくいので、父は“旗信号”を使うんですよ。黄色いタオルが車の窓にかかっていると「海から上がれ」っていう合図なんです。それを見て半べそになってましたね。「こんどはどこが悪かったんだろう」って。
photo by Kazuki Murata
――その特訓の日々を経て、プロサーファーになったのですね。
萩原 そうですね。プロになったのは16歳。積年の努力が実って念願のプロになったわけですから、感慨深かったです。「これで飯を食っていくのか」とぼんやり思っていましたね。父もすごく喜んでくれました。
photo by Kazuki Murata
――素晴らしいです。ちなみに、同世代で意識していたサーファーはいましたか?
萩原 大橋海人や松岡慧斗です。今も二人のライディングを間近で見て、刺激をもらってます。昔から二人とも、コンペティションでガンガン勝っていて勢いがあったし、カッコイイ動画を残してましたからね。負けられないなって思ってました。

無気力になり、全てを投げ出した

photo by Kazuki Murata
――しかし、順風満帆に見えたプロ活動を20歳で突然、停止しましたよね。
萩原 サーフィンを一度やめました。まさにドロップアウト。何もかも嫌になって。その頃はスポンサーや親からの期待が大きくなりすぎていて、重荷になっていた部分がありました。
大会で勝つのは自分のためか、それともスポンサーのためか、はたまた親のためか・・・。そんなことをぐるぐる考えているうちに、楽しいはずのサーフィンが、いつの間にか嫌悪の対象になっていったんです。
武藤 俺とは真逆の環境だね。
photo by Kazuki Murata
――610-changは誰からも強制されず、自発的にサーフィンをやっていたんですよね。この違いってなんでしょう?
武藤 世代じゃないかな。俺の親の世代は、子供のやることに口を出す人が少なかった。現に、親が俺のサーフィンを見にきたことなんか一度もないし。
スパルタな親が増えたのは、2世サーファーが出てきてからじゃない? 自分がサーフィンやってると、子供に口を出したくなるんだよ。
萩原 そうかもしれませんね。
photo by Kazuki Murata
――なるほど。では、そこからずっとサーフィンの世界から遠ざかっていたんですか。
萩原 はい。サーフィンは全くしていませんでした。仕事も続かなくて、転々として。「自分、何やってんだろ」とは常々思っていたけど、他にやりたいこともなかったんです。
――どこか惰性で人生を過ごしていたと。再開されたのはなぜですか?
萩原 ある日、気晴らしに近所の海に入ってみたんです。久しぶりにサーフィンをしていたら、心がほぐされていくような感覚になって。それから少しずつできるようになりました。
photo by Kazuki Murata
――復活できて、本当によかったです。その後はどうでしたか。
萩原 身体が海に入りだしたら、自然と頭でもサーフィンのことを考えるようになりました。2019年には、千葉のJPSAプロトライアルに出場して、そのときに慧斗や海人たちに再会したんです。二人に「湘南来てみたら?」と提案されて、移住することを決めました。
西浜ポイントにて photo by Kazuki Murata
――波がいい宮崎ではなく、あえて湘南を選んだのですね。
萩原 はい。たしかに宮崎は波がいいです。でも、湘南エリアは同世代で活躍しているサーファーがたくさんいて、刺激をもらえる。宮崎のスローライフも悪くないけど、今の俺には刺激が必要じゃないかと感じたんです。
湘南はもともと、ホームですからね。とはいっても家がないので、しばらくは海人の実家に居候させてもらってました。
武藤 え、大橋家で暮らしてたの!それ初耳!アツイ(笑)
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