「腕時計と男の物語」とは……長い闘病生活を送っていた義母が亡くなった。コロナ禍で面会もままならなかったが、せめてもの救いは最期を看取れたことだ。そして今僕らは、主のいなくなった妻の実家の片づけをしている。
夫に先立たれた義母が一人で暮らしたのは、先代から受け継いだ古い家屋だった。
窓の一部には昔ながらのレトロな板ガラスが今も残る。その窓越しに見る少し歪んだ庭の風景は、冬の寒さを滲ませているようだった。そして重ねた歳月が醸し出す風格は、腕元の
ブレゲ「クラシック 5177 グラン・フー・ブルーエナメル」にも似ているように思えた。
ブランドを象徴する深いブルーのダイヤルは、800℃の高温で焼成するグラン・フー エナメルによって生まれる。独自調合の釉薬がガラス質の被膜となって表面を覆い、独特な艶感と光沢を生み、経年劣化も防ぐ。長い歴史によって培われた伝統的な装飾技法だ。いつの日かこの時計が僕の腕から我が子へと渡っても、今と変わらぬ美しさを湛えていることだろう。
「ねぇ、ちょっと来て。面白いものが出てきたわよ」。手招きをする妻が見入っていたのは一冊のアルバムだった。覗き込むと写っているのは幼い頃の妻だ。義母に抱かれた赤ん坊から始まり、立ち歩きする様子やおめかしした七五三、入園式。その姿はしだいに女の子らしくなってくる。
「不思議なものねぇ。写真を見ていると撮られた瞬間がまるで映画のシーンみたいに甦ってくる。カメラを構えた父さんや周囲の笑い声までも」。
そう呟いた瞬間、これまで気丈に振る舞ってきた妻の肩が震えた。そして僕の目の前にいる、妻であり、母である彼女は、この家で溢れんばかりの慈しみの下、育った娘に戻っていた。
彼女を大切に守ってきたのは、あの窓ガラスのような見えない愛情だったに違いない。だが大人になった彼女に僕は何をしてあげられたのだろう。本心を理解することなく、キャリアアップと育児を二者択一させ、家庭という世界に閉じ込めてはいなかったか。そんな思いが込み上げた。
普段意識することはなくても人は皆、誰かに見守られ、支えられている。たとえそれがガラスのように脆く、壊れやすいものだったとしてもなくてはならない。彼女を守るのは、これからは僕の番だ。
そんな誓いとともに、そっと妻の肩を抱いた。写真の少女の瞳がもう一度輝いたように見えた。
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