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数奇な運命を辿ったプーマ スウェード

©️PUMA
1968年に開催された、メキシコシティーオリンピックの200メートル走の表彰式。金メダリストのトミー・スミスと銅メダリストのジョン・カーロスはスニーカーを指に引っ掛け、靴下姿で入場、そして黒の革手袋をはめた手を高々と挙げた。
それはブラックパワーサリュートと呼ばれた人種差別撤廃のパフォーマンスだった。銀メダリストのピーター・ノーマンも2人がやろうとしていることに共感し、OPHR(人権のためのオリンピックプロジェクト)のバッジを付けて表彰台に。
式はブーイングに包まれ、世界中の新聞が翌日の一面で紹介した。政治的なパフォーマンスはオリンピック憲章に反する行為であり、彼らは世の審判を待つことなくオリンピック村を強制退去させられ、ナショナルチームから除名された。執拗な批判に耐えられず、ジョンの奥さんは自殺したという。彼らが名誉を回復したのはずっと後になってからのことである。
このときトミーとジョンが携えたスニーカーは、同年商品化されたばかりのクラック。練習やオリンピック村でくつろぐときに履いていたトレーニングシューズだった。
©️PUMA
時は下って1973年。プロバスケットボール選手、ウォルト・フレイジャーからプーマに一本の電話が入った。ウォルトは電話口でこう言った。
「トミーのスニーカーをコートで履けるように改良してくれ」。
当時メダリストになるということは、第二の人生が保証されることと同義だった。トミーらは引退後の恵まれた生活を投げ打ってまで声をあげた。そのスニーカーが欲しいと言ったウォルトの心根には、義憤のようなものが少なからず含まれていたに違いない。
プーマはそのソールをそれまでのものから新たに考案したデュラブルスターでアップデート。デュラブルスターはコートシューズに適したパターンを特徴とする現在に続くソールだ。ウォルトのシグネチャーモデルであり、プーマ スウェードの前身となる「プーマ クライド」が誕生した瞬間である。
時計の針を再び戻せば、オリンピックが終わったあとにプーマはある広告を出している。それはトミーがレースに使ったスパイクをフィーチャーしたものだったが、そこには“プーマはもはやなにものにもとめられない”という言葉が添えられていた。


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