衰えゆく産業の担い手として生まれて
1980年、平松さんは小杉湯を営む両親のもと高円寺に生まれた。“歴史ある家業の長男”と聞くと、幼い頃から後継ぎとしての教育を受け……みたいな人生を勝手に想像しそうになる。けれど、平松さんの場合はそうではなかったという。
「両親から『継いでくれ』と言われたことはなかったです。ただ、うちは銭湯と自宅がつながっていて、生まれたときから小杉湯が遊び場。毎日銭湯に入っていると、常連さんたちから“3代目”として見られているのがわかるんですよ。
『次の代はお前だな』なんて声をかけられるうちに、『そういうものなのかな』と。たぶん歌舞伎とかと同じだと思うんですが、いつのまにか『継がなきゃいけない』と感じるようになっていました」。
使命感が芽生えるようになったものの、両親が楽しそうに働き、地元の人びとから愛される小杉湯のことが、平松さんも大好きだった。一方、銭湯が斜陽産業であることは、子供心にもわかっていた。
東京の銭湯の数は、1968年の2687軒をピークに減少の一途をたどっている。
戦後の高度経済成長期、東京が驚異的なスピードで復興と発展を遂げるなかで、街づくりを担う労働者が全国から流入した。彼らの住居の多くは風呂なしアパート。そこで、銭湯があちこちに建てられた。
平松さんによると、1968年の2687軒という数は「現在の東京にあるセブンイレブンの数とほぼ同じ」。銭湯は人びとの暮らしに欠かせない生活インフラだったのだ。
しかし、各家庭に内風呂が普及しはじめたことで、銭湯の数は前述の1968年をピークに減少に転じる。その後、2010年時点で800軒、2019年には520軒にまで落ち込んだ。
平松さんが生まれたときすでに公衆浴場業は衰退の過程にあったし、それは世間の共通認識でもあった。
「家業が銭湯だと人に話すと、必ず『大変だねえ』と返されました。なかには『土地があるから、廃業してマンションを建てれば一生遊んで暮らせるね』なんて、悪気なく言う人もいて。そういった世間の空気への反発もあって、10代の頃は自分の境遇に対して複雑な感情がうずまいていた気がします」。
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