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“M-1芸人”から“エンタ芸人”へ

22年前、マシンガンズとして初めて立った舞台のことはよく覚えているという。場所は、かつて渋谷にあったお笑い専門の劇場「シアターD」。複数の芸人が参加する、トーナメント制のコンテストだった。
「お客さんは100人くらいだったかなあ。初舞台なのにめちゃくちゃウケたんですよ。1本目のネタも2本目のネタも会場が揺れるくらいウケて、決勝まで進んで。決勝で負けちゃったものの、それでもウケた。その後も下積み時代が長くて、3回に2回はスベる、みたいな日々でしたけど、あのときの経験があったから芸人を続けられたんだと思います」。
マシンガンズの漫才の特徴として知られるのは、ボケのないダブル・ツッコミ。滝沢さんと相方の西堀 亮さんが、まくしたてるような毒舌のツッコミをお互いに被せていく。
写真提供:滝沢秀一
5年におよぶ下積み生活で試行錯誤を重ねてそのスタイルを確立すると、徐々に結果が出るようになった。
2007年の『M-1グランプリ』で準決勝へ進出。さらに、当時人気を博していた『エンタの神様』や『爆笑レッドカーペット』などのテレビ番組にも出演するようになり、マシンガンズは全国区の知名度を獲得する。
「テレビによく出ていた時期はけっこう忙しくさせてもらってました。何がうれしいって、テレビで名前が売れると、各地のお祭りやイベントでネタを披露する、いわゆる“営業”と呼ばれる仕事が増えるんです」。

メディアでの露出が増えた結果、全国で行われる祭りや学校の文化祭から声が掛かるようになり、ピーク時は営業の仕事だけで月に20本。それに加えて、テレビや舞台の仕事もこなした。
「そうすると、収入的にもウハウハなわけです。俺らはテレビに出るまでほとんどお金をもらえなかったので、特に。31歳でテレビに出るようになって、そんな生活が数年間続きました」。


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