「師弟」であり、「親子」のようでもある。そんな強い絆を紡ぎながら、いつしか二人の間柄は、肝胆相照らす無二の「親友」になっていったようだ。
「今年はコロナ禍でやめておいたのですが、毎年、賢三さんがバカンスから戻る直前には、彼の自宅にお邪魔して棚や冷蔵庫の整理をするんです。賞味期限切れの食材はないかなって」。
それだけ深い信頼関係で結ばれていたからこそ、中山氏も時には「親に言い返す息子のように」耳の痛い助言をすることもあった。
「賢三さんはとにかく人がいいんです。ある時などは、安っぽくて美味しくもないワインのラベルのデザインを引き受けそうになっていた。『高田賢三がこんな仕事を受けちゃダメですよ』ときっぱり断るように言いました(笑)」。
晩年も、第一線のクリエーターとして走り続けた高田。2016年にはセブン&アイ・ホールディングスとコラボレーションした「SEPT PREMIERES by Kenzo Takada」を発表、2020年初頭にはホームウエア&ライフスタイルブランド「K3」を立ち上げるなど、精力的に創作活動を続けていた。
「最後まで、丸くなる、落ち着くということがなかったですね。常に動き回っていました」。
一方の中山氏もパリの店を軌道に乗せ、2018年には「Restaurant TOYO Tokyo」をオープンして念願の東京進出を果たすなど、オーナーシェフとして順調なキャリアを築いていった。
多忙な日々の中でも毎週のように、どちらからともなく電話をかけ合っていたという二人。一流のクリエーターとして互いを尊重し、心を許し合える間柄だった。
「僕が日本店をオープンした時も、わざわざ駆けつけてくれました。若いスタッフが働く姿を見て『俺のところに初めて来た時はいくつだった?』『28でした』『若かったんだなぁ』なんて会話をしながら、笑い合ったのを憶えています」。
最後まで、粋でカッコよかった“賢三さん”
「この間も、賢三さんの親友が亡くなって、そのパートナーを励ます会をパリの僕のお店で開いたばかり。とにかく、自分のことより人の心配をする人なんですよね」。
亡くなる直前まで、人を楽しませる、喜ばせることに夢中であり続けた――中山氏が語る高田のエピソードからは、彼の少年のような素顔が浮かび上がってくる。
1970年代にはオートクチュール(高級注文服)からプレタポルテ(既製服)への新潮流を巻き起こし、フォークロア(民族衣装)・ファッションの生みの親としても知られる高田。
彼がファッション界に遺した偉大な足跡は、「目の前の人を楽しませたい。元気にしたい」というプリミティブな人間性がもたらしたのかもしれない。その薫陶を受けた中山氏もまた、お店を訪れる人を舌で、目で楽しませるために、今日も厨房に立つ。
「うちの店のスタッフにも、楽しませることに夢中になって、自由に発想できる料理人になってもらいたい。そして、後々有名になってくれたらうれしいですね」。
穏やかに笑う中山氏のまなざしは、かつて若き日の中山氏に向けられた高田のそれに重なって見える。そんな気がした。
最後に、中山氏に尋ねてみた。天国に旅立った“賢三さん”に何と言ってあげたいですか?
「齢を重ねても過去の自慢話や武勇伝を一切言わず、むしろ失敗談をおもしろおかしく話すような人。最後まで、そんな粋でカッコいい賢三さんでした。一言、カッコよかったですよ!って言ってあげたいですね」。
堀尾 大悟:ライター
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