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順風満帆な社会人生活が絶たれ、野球で生きていく覚悟を決めた

当時、活躍することはおろか、入部することすら難しかったという三菱ふそう川崎の硬式野球部。そこに矢貫さんが入部できたのは、些細な出来事がきっかけだったと微笑む。
矢貫俊之さん
「常磐大学の監督と三菱ふそう川崎の監督が先輩後輩だったということもあって、三菱ふそう川崎の監督が常磐大学に練習を教えにきたことがあったんですよ。そのときに『よかったらうちの野球部に来ないか』と声をかけてもらったんです。でもあとから三菱ふそう川崎の監督から聞いた話なんですけど、野球の技術で誘われたわけではなく『お前の爽やかな性格に惚れたから誘ったんだ』と(笑)。挨拶したときの印象が頭の中に残っていたそうで、本当に縁っていうのは何がきっかけで繋がっていくかわかりませんよね」。
この三菱ふそう川崎への入社で矢貫さんは、野球に対するマインドを大きく変えられることとなった。
「それまではただ単にエースになって活躍したい、速い球を投げたいと思っていたんです。でも三菱ふそう川崎の硬式野球部に入って、チームに貢献したい、チームに勝利をもたらすような選手になりたいと思うようになりました。そのためには、自分がどうやってチームに合わせていくべきかということを日々模索していましたね」。
最高の環境のなかで、改めて野球の奥深さを知った三菱ふそう川崎での投手時代。順風満帆かのように思われた矢先、思いもよらぬ試練が立ちはだかった。
「入社2年目のときに、『来年で野球部が休部になる。これからどうしたいか考えてくれ』と告げられました」。
矢貫俊之さん
突然の休部宣告に、矢貫さんは思い切った決断をする。
「自分の状態を冷静に分析したうえで、次のステップとして『プロ野球選手になりたい』と言いました。プロ野球選手になりたいと明言したのは、このときが初めてでしたね。口に出したことで、野球でやっていくんだという覚悟をやっと決めることができたんです」。
その結果、先発・中継ぎ要員として、2008年夏には同チームの都市対抗野球出場に大きく貢献した矢貫さん。2008年のプロ野球ドラフト会議では、北海道日本ハムファイターズから3巡目で指名を受けて入団。幼い頃から描いていたプロ野球選手になるという夢を実現させたのだ。


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