下手くそだからこその最強処世術
では、なぜ“下手くそ”だった鈴木が日本代表にまで上り詰めることができたのだろうか。また、なぜ16年間もプロサッカー選手として生き残ることができたのだろうか。
確かに、鈴木が言うように、当時の浦和レッズには、小野伸二や長谷部誠ら、その時代を彩るスーパースターたちがたくさん在籍していた。そんなスター軍団たちによる厳しい生存競争のなかで、16年間を生き抜いた秘訣はどこにあったのか。その点を鈴木に聞くと、まるで当たり前のことのようにこう振り返った。
「下手だったから良かったんです。下手だから誰よりも走らないといけなかったし、自分が動くことによって人を輝かせることが、自分が生きる道になったんでしょうね」。
確かにチームには必ず、外すことができない絶対的な選手がいる。そんな重要なポジションにいる選手たちに認めてもらうこと。これこそが鈴木にとっては大切なことだった。「アイツがいれば活躍できる」――そう思わせ、彼らがプレーしやすい状況を作ることこそが鈴木の存在価値になった。“下手くそ”だった鈴木にとって最強の処世術は、まさに「金魚のフン」作戦だったのだ。
“下手くそ”が上手くなるとき
自分を“下手くそ”と表現する鈴木氏が、格段にサッカーが上手くなったと感じた時期がある。それは、2012年から引退する2015年までの4年間だった。2012年といえば、ミハイロ・ペトロビッチ氏が浦和レッズの監督に就任した年だった。
2011年の鈴木は、すでにプロになって10年以上が経過し、日本代表からも遠ざかっていた時期。キャプテンという重責を背負い、極度のプレッシャーに晒されるなか、心と体のバランスが崩れ、何のためにサッカーをやっているのかわからなくなってしまっていた。チームの成績も伸び悩み、引退すら考えていた時期だった。
「子供の頃は楽しかったサッカーが、楽しく感じなくなってしまったんです。プロになってからは、楽しむことよりも、勝つためとか、結果に対する意識が強くなっていました」。
そんなときに浦和レッズの監督に就任したのが、名将ミハイロ・ペトロビッチ氏(現コンサドーレ札幌監督・以下、ミシャ)だった。就任したミシャは、選手たちに対して、開口一番にこう言ったそうだ。
「お前ら、楽しそうにサッカーをやってないじゃないか。勝敗の責任は俺がとるから、お前たちはサッカーを楽しんでくれ」。
衝撃を受けた鈴木だったが、その後に、ミシャからかけられた最初の言葉を、鈴木は今も忘れていない。
「“お前はこれからもっと上手くなる”って言われたんですよ。すでに30歳を超えていたんですよ? 最初は『そんなわけないよ』って思うじゃないですか。でもミシャは“俺を信じてついてこい”って言ってくれて。そうしたら、本当にサッカーが上手くなっていくし、なによりも上手くなるって楽しいって思ってプレーできるようになったんです」。
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