苦心して作った義足の評価は「まあまあ」
そんな絶望的な状況を変えたのは、過去に苦い思い出のある陸上選手の義足を作ったことだった。
「昔、試着して早々『こんなもの履けるか!』と拒絶された、あるパラアスリートがいました。その選手と2016年に再会して、『どれだけレベルアップしたか試してやる、合宿に行くから1週間で義足を作れ』と言われたんです。独立した直後ですし、彼はパラアスリート界でも大きな影響力を持っているので、今度こそ絶対に失敗できないと思いました」。
ほんの数年前、懸命に作った義足を履いてももらえなかった苦い記憶が蘇る。1週間、沖野さんは眠い目をこすりつつ、夜がふけるまで義足作りに勤しんだ。そして運命の1週間後、緊張の面持ちで渡した義足の評価は拍子抜けするほどあっさりしたものだった。
「『まあまあ』と言われました。でも前回のことを思えば僕にとっては最大の賛辞だったし、彼は褒めないことで有名なのでなおさらうれしかった。今でも彼の義足を作っていますが、やっぱり『まあまあ』としか言ってくれません(笑)」。
一番きつい言葉をぶつけられた選手に、独立後に作った義足を評価されたことは、沖野さんに大きな自信とやる気を与え、起爆剤となった。
「彼をうならせたら、もう大抵の人は大丈夫だろうと。独立してうまくいかずに落ち込んでいた自分にとって、前向きになるきっかけをもらった気がしました。本気でやってやるというスイッチが入ったんです」。
今では海外から仕事の依頼が舞い込んだり、乙武洋匡さんの義足プロジェクトに参加したりと、大忙しの沖野さん。独立して3年。毎日この蔵前の工房でひとり、義肢装具と向き合う沖野さんだが、いろいろな製作所を見に行ったり、そこで情報交換をしたりとインプットの幅を広げることは忘れていない。変化を恐れず進むのが沖野さんなのだ。
「未来を想像して楽しい、と思える道を進む。もちろん将来のことを考えたときに飯が食える・食えない、とかいろんな条件が入ってくると思うけど、なんだかんだ楽しければどうにでもなりますよ。10年後の自分が生き生きと笑っているような選択をしてほしいですね。人には義肢装具士はオススメできないけど、自分はずっとこの仕事を続けていきたいです」。
動物園からサバンナへ。沖野さんはその広大な土地でひとり、のびのびと自由な日々を楽しんでいた。
藤野ゆり=取材・文 写真=小島マサヒロ