清野さんは高校時代はスーパーでアルバイトをしていた。同じスーパーで働くおばちゃんの友人が、漫画家の押切蓮介さんのお母さんだった。押切蓮介さんは現在『ピコピコ少年』『ハイスコアガール』など、たくさんの人気作品を持つ漫画家だ。清野さんは当時、同じ年齢で漫画を描いている人がいると知って、接触を図ろうと思った。
「パートのおばちゃん経由で押切くんの電話番号が回ってきて、公衆電話からかけました。かなり緊張しましたね」。
電話で話をしたところ数分で打ち解けあうことができ、すぐに友達になった。休日には2人で神保町の古本屋巡りをして、マクドナルドでご飯を食べて帰ってきた。
「陰鬱な『まんが道』みたいな感じでしたね(笑)。2人共、満賀道雄(藤子不二雄Aがモデルのキャラクター)みたいな感じでした」。
ひたすら漫画を描いた大学時代。連載が始まるも…
高校卒業後は、大学に進学することにした。
「単純に猶予期間が欲しかったんです。大学の間にちゃんとした漫画家になれたらいいなと思いました。もし大学を卒業するまでに目に見えた成果がなかったら、無難に就職でもしようと決めていました」。
大学ではサークルやゼミには入らず、友達もまったくいなかった。大学1~2年の時にとにかく漫画を描いて、『ヤングジャンプ』(集英社)に投稿しまくった。
「大学3年の時にヤングジャンプで『青春ヒヒヒ』の連載が決まりました。当時、まだ世間的にも人気のあった不条理漫画でした」。
連載が始まったのは2001年、大学4年の秋だった。1週間に14枚を仕上げるという週刊連載は想像よりもずっと大変だった。押切蓮介さんに手伝ってもらってなんとか仕上げた回もあったという。ただ残念ながら、連載は長続きせず単行本2冊分で打ち切りになってしまった。
「その打ち切りから次の連載が始まるまで1年間は完全に無職になってしまいました。当時は、連載を1回でもできたら、その後もずっと漫画家としてやっていけるもんだと勘違いしてました。打ち切られて、ポーンと社会に放り出されて、『うわ、やべえ!! なんにもないじゃん!!』ってすごい焦りましたね。
ただこの頃はまだ絶望はしていませんでした。『描けばなんとかなるんじゃないか』と思っていたので、とにかく描きました」。
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