OCEANS

SHARE

パリを席巻した「ジャポニズム」。浮世絵との運命の出合い

貧しい労働階級の家族が慎ましいランプの下で夕食のじゃがいもを食べる情景を描いた、ゴッホ、32歳の作品。『ジャガイモを食べる人々』。1885年4-5月、リトグラフ(インク・紙) 26.4×32.1cm ハーグ美術館 © Kunstmuseum Den Haag
32歳になったゴッホは、画商として働いていた弟のテオを頼りにパリへと移り住んだ。テオは、ゴッホが死ぬまでの画家人生を経済的に援助し続けた、最大の支援者にして、最大の理解者だった。
そしてこの年、ゴッホにとって決定的な転機が訪れる。それが日本美術「ジャポニズム」との出合いである。
弟テオと同居していたモンマルトルのアパルトマンから見た街の眺め。パリ移住後まもなく描いた作品。オランダ時代のような暗く、不穏な空気感はなくなっている。日本初公開となる、ゴッホ32歳の作品。『パリの屋根』1886年春 油彩、カンヴァス 45.6×38.5cm アイルランド・ナショナル・ギャラリー © National Gallery of Ireland
19世紀後半、花の都・パリは芸術で湧きたっていた。パリ万博が開催されると世界中から人やモノが集まってきた。長らく鎖国していた日本のアートが西洋に初めて紹介されたのもこの頃だった。
特に葛飾北斎などの浮世絵が持つ掟破りの構図や狂った遠近法に人々は熱狂。くっきりした輪郭線、立体感なく平坦に塗られた色面、色鮮やかな原色の対比など、伝統的な西洋画ではタブーとされているほとんどすべての手法が日本画では使われていた。これは西洋の人々には衝撃的だった。
旧態依然とした西洋画の殻を破ろうとしていた若い画家たちはまたたく間に虜になった。モネ、マネ、ドガ、ルノワール、ピサロ、ゴーギャン……浮世絵は、印象派全体を活気づけたとも言われている。
ゴッホも例外ではない。いや、むしろゴッホほどジャポニズムに心酔した画家もいなかった。「取り憑かれた」と言ってもいい。貧しい生活のなかにあって、テオとともに500枚もの浮世絵を自前で収集したほどであった。
「芸術の未来は日本にある。私も日本に行きたい」。
ゴッホの日本への憧れは日増しに大きくなっていった。しかし、日本へ渡る経済力などあるはずもない。
描いても描いても絵は売れない。貧しい生活からは一向に抜け出せない。そんな八方塞がりのなか、ゴッホはいつしか日本というユートピアに少しでも近づくことで、芸術家としての魂が救われると信じ込むようになっていた。


4/4

次の記事を読み込んでいます。