ゴッホが画家の道を決意するまで
祖父、父ともに牧師の家系で育ったゴッホは16歳のとき、画商として富をなしていた叔父を頼ってオランダの画廊に就職した。その働きぶりが認められ、ロンドン支店やパリ支店にも赴任。画商としての経験値を積み上げていった。
7年間の画商生活で触れた数々の絵画は、ゴッホ自身を芸術家の道へといざない、その運命を飲み込んでゆく。筆をとり、絵を描き始めたのもこの頃だった。
しかし、ゴッホもひとりの人間だ。ロンドン支店にいた頃、下宿先の娘に求婚するも、彼女にはすでに婚約者がおり、その申し出は足蹴にされてしまった。手痛い失恋を経験したゴッホは、苦悩のどん底に堕ちていった。
「何をやってもうまくいかない」──。
以降、勤務態度が悪化し、勤めていた画廊も解雇される始末。内向きで思慮深い性格、悪く言えば深く考えすぎてしまうゴッホの個性が端的に表れているが、その反動で「自分の心のよりどころは神の国以外にはない」と聖書にのめり込み、かつて背を向けた父親と同じ聖職者の道を歩もうと考えはじめる。
だが、それも長くは続かなかった。大学神学部の入試に失敗し、宣教師学校も途中で挫折。ベルギーで伝道師として活動を開始し、伝道委員会から試験的に伝道師として任命されるも、まもなく解雇されてしまう。貧しい人に自らの衣服を与えるなど、異常なまでの献身が不気味だというのがその理由だ。
幼い頃から癇癪持ちで、思い込みが激しかったゴッホは、大人になってもその性格は変わらなかった。何かに没頭するほど、その激情が空回りしてしまうのだ。どんなチャレンジも実を結ばず、ついにプロの画家になることを決意したのはフィンセント・ファン・ゴッホ、27歳のときだった。
ゴッホの初期作品『疲れ果てて』は、経済的理由もあってオランダの実家に戻っていた時代に描いた一枚である。当時、農民画などで有名なジャン=フランソワ・ミレーに強い影響を受けていたゴッホは、実際に目にした農民たちの労働や暮らしの様子を切りとるようになっていた。
当時はまだ歴史画が崇高なものとして評価され、農民の生活などを描いた風俗画は低俗なものと見なされていた。ゴッホは友人にあてた手紙にこう綴った。
「農民たちを描くということは、極めて弱い人間にはとりかかろうとすら思えない種類の仕事なんだ。僕は少なくともそれに挑戦した」。
一度は聖職者を志したゴッホ。その根っこは真面目で優しく、社会の底辺にいる人々の存在を決して忘れることはなかった。
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