「ミスを叱らず、ひとつでも良い点があればホメる」
「子供頃、自分が言われてイヤだったことは言わないようにしよう、と。私も野球をしていたのですが、たいした選手ではなかったので、ヘタな選手の気持ちがよくわかるんです」。
過剰に叱られたり怒号を浴びるのは、子供としてはツラい。それが原因でグラウンドから足が遠のくこともある。ホメられるほうが、また頑張ろうとやる気が出るものだ。
「まあ、性格的に短気なところもあるので、自分を殺して叱らない場面もありましたけどね(笑)。教えすぎないのも、野球の指導は教えるのが上手な方たちに任せたほうがいいと思ったからです」。
そんな光行さんだが、ひとつだけ上林選手に命じたことがあった。もともと右投右打だった上林選手の左打者転向である。
「長男も誠知も足が速かったので、それを活かそうと2人とも左打ちをさせてみたんです」。
光行さんが上林選手の潜在能力に気づいたのは、そのときだった。
「誠知は初めての左打ちなのに、何の苦もなく違和感のないきれいなスイングで打てたんですよ。逆に長男は最初、手こずっていて。そのときに“もしかしたら誠知はレベルの高い世界でもやれる選手になれるかも”と感じました。まだ小さいですし、どうなるかはわからないので、誰にも言わず、あくまで自分の心の中にしまっておきましたが」。
野球に限らず、一流のアスリートは目にしたりイメージした肉体の動きを、自分で再現するのに長けているケースが多い。上林選手もその能力が高いのだろう。その後、光行さんは上林選手には何気なく、上の世界を目指すことを意識付けるようにした。
「よくお風呂で何か成し遂げた偉人の話や壁を乗り越えて成功した人の話をしてあげましたね」。
当時の光行さんは仕事で苦労も多く、自身の勉強という意味もあって、そういった本をよく読んでいた。そして、忙しい日々ではあったが、子供たちとコミュニケーションをとることは心がけていた。親子にとってお風呂は、そんな貴重な時間だった。
「場所を提供し、精神面のサポートを心がける」
やがて、上林選手は光行さんの見立て通り、実力をぐんぐん伸ばす。野球に魅了され、気がつけばチームの中心選手になっていた。
「誠知は好きなことには黙々と取り組むタイプ。“普段はクール”などと雑誌の記事に書かれるように口数は多くないので、積極的なタイプに見られないこともありますが、熱い気持ちは持っているんです」。
やがて訪れた中学進学。上林選手がさらに羽ばたくため、光行さんは中学で野球を続ける「場所選び」に直面する。
進学する中学の軟式野球部は、指導者の教員の方が忙しく、あまり熱心に活動していなかったんです。だから硬式のクラブチームのほうが力を伸ばせるかな、と思いました
」。
そして選択肢に上がってきたのが、自宅近くの浦和シニア。
「いろいろな大会で実績を残していて、OBは高校野球の強豪校へも進んでいる。さらに元プロ野球選手の矢作公一さんがコーチでしたから、いろいろと勉強にもなるだろう、と」。
ところが、肝心の上林選手は、最初、乗り気ではなかったという。
「浦和シニアはいろいろな小学生チームの“エースで4番”が集まってくる。まだ子供でしたから、気後れする部分もあったのでしょう」。
それまでスパルタ指導もせず、基本的に「見守る」スタンスだった光行さん。上林選手には「プロになれるぞ」といった強い言葉もかけていない。上林選手は、まだ自分の実力に自信を持ちきれなかったのかもしれない。ここで光行さんは、初めて「親の強制力」を発動する。
「誰にも話してはいませんでしたが、その頃には誠知はプロに行ける可能性があると感じていました。だから中学でも上へのステップとして、それなりのレベルの中でプレーしたほうがいい。だから、半強制的に浦和シニアへ入団させました」。
初めは怖々、練習に参加した上林選手だが、プレーをしてみれば浦和シニアでも実力上位。本人の心配をよそに、順調に主力選手へと成長していった。ちなみに光行さんは、ここでも野球自体にはノータッチを貫き通す。気にかけたのは精神面だ。クラブチームは学校の部活動ではないため、日常生活までは深くタッチできない。
「中学生とはいえ精神的にまだ未熟な面もあります。悪い人間に引っ張られて脇道へそれることもあるかもしれない。年齢的にまだそこまで強くないと感じていたので、精神面のサポートを心がけました。また、『先輩は大事だが試合で遠慮してはいけない』『4番ならチームが作ってくれたチャンスを自分で返せるようになれ』など、野球選手としての振る舞いなども話していましたね。偉そうで恐縮ですが」。
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