ボランティアをともに務めたICUの学生に影響を受ける
こうして馬術のトップ選手が集う場で通訳のボランティアを始めた竹内さん。まずはその「世界」に驚いた。
「馬術は圧倒的にヨーロッパが強いんです。当時の日本は、外国といえばアメリカをまず思い浮かべる時代。インターナショナルスクールに通っていた私でさえそう。だから、馬術の周囲、背景から感じるヨーロッパの貴族文化に圧倒されました。世界はつくづく広いな、と。それで、父が馬術に憧れ、ボランティアを薦めたのも少し理解できた気がしましたね」。
ただし、オリンピック後、竹内さんはその父を烈火のごとく怒らせることになる。きっかけは、やはりボランティア経験だった。
「先ほども言ったように、馬術のボランティアはほぼICUの学生さん。大学生の中に私1人、高校生が混じっている状態でした。だから、かわいがられたのですが、一方で自分と少ししか年齢が変わらない彼らの話が理解できなかったんです。ICUはリベラルアーツ教育も行っていたから、みんな哲学や文学への造詣が深くて……まあ教養があるわけです。彼らがハイデッガーの話をしていても、私は“なんですか? そのハ、ハ、ハイデなんとかって?”みたいな感じでまったくついていけない(笑)」。
そのショックが、竹内さんの人生を大きく変えた。
「僕もあんなお兄さん、お姉さんのようになりたい」。
ICUの学生たちは、教養があるだけではなく、みな優しさも持ち合わせていた。
「キリスト教の教育がそうさせたんですかねえ。とにかく私は影響を受けて、インターナショナルスクールからアメリカの大学へ進むという既定路線を覆し、ICUに希望進路を変更したんです」。
それで父が大激怒した、というわけである。それでも息子が自分の経験のもと、自分で考え出した進みたい道。最後には父が折れた。日本の大学とはいえ国際色豊かなICUがであったことが、救いにはなったのかもしれない。
ICUで植え付けられた「自分は日本人」という意識
オリンピックのボランティアをきっかけに、人生の舵を大きく逆に切った竹内さん。実際、この変更は竹内さんに確固たるアイデンティティを与えることになる。それは「自分は日本人である」という意識。
「ICUでは勉強の傍らでサッカー部に入って、野球部も創設して、スキーの同好会も作り、演劇にも参加した。ICUって、いい意味でいい加減で(笑)、掛け持ちもOKだったから。インターナショナルスクールにはいなかったさまざまな日本人とも接した。ICUには日本育ちの学生から、私のような経歴の人間、海外育ちの日本人など、さまざまな学生がいて、それぞれ世界が違う。いろいろな日本を肌で感じる機会になりました」。
それは、竹内さんに「自分の根っこは日本人」という意識を強く植え付けた。
「大学3年時にカリフォルニア大に留学して以降、今に至るまで日本と外国と行き来している人生ということもあって“ハイブリッド”なんて呼ばれることもありますが(笑)違うぞ、と。根は日本にあるんだ、という気持ちは強い。ハーバード大学に所属していたときに子供が生まれましたが、帰国して日本で育てることにも迷いはありませんでした。ICUに行ったからこそ、根っこをどこに置くか、ということに迷わなかったのだと思います」。
クリスチャンの竹内さんは「ヨゼフ」という洗礼名をもっている。
「ハーバードに行ったとき、自分のことをヒロ・タケウチと呼んでくれ、と言いました。もしICUに行かず、そのままアメリカの大学に進んでいたら、ヨゼフからとったジョー・タケウチといった名で呼ばれていたかもしれないし、それに抵抗も覚えなかったでしょう」。
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