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人生を一変させたパラリンピックとの出合い

アテネパラリンピックで勝ち取った銀メダル。
その後、江島は、家族や友人の励ましに支えられながらリハビリを行い、半年後には学校に通えるまでに回復した。学校に復帰した当初は、また仲間と一緒に生活できる喜びを感じていたが、それも束の間、水泳ができなくなってしまった喪失感は、次第に大きく膨らんでいった。
その喪失感を埋める方法は見つからず、悶々とした日々を過ごす。そんな時に、江島が出合ったのがパラリンピックだった。
2000年10月に行われたシドニーパラリンピックの水泳。深夜につけたテレビに映し出されていたのは、それぞれ異なる障がいを抱えたアスリートたちが、必死にゴールを目指す姿だった。江島の心が動いた。
「障がいがあるから無理だと、自分で勝手に決めてつけていたことに気づきました。もしかしたら、自分もパラリンピック選手たちのように泳げるのではないかと思い、もう一回やってみようと決心しました」。
こうして、パラ水泳の道に進むことを決意した江島は、再びプールサイドに向かった。「新しい江島大佑」として。
 

以前のように泳げないもどかしさ

だが、いざプールに浸かってみると、すぐに現実を思い知らされることとなる。頭の中にあるイメージとは異なり、昔のようにスイスイ泳ぐことができないのだ。
左半身が動かないため、泳いでいるうちに左に傾いてしまう。右半身でバランスを取ろうとすると、今度は、右肩に負担がきて、バランスがまったく保てない。以前のようにスピードを肌で感じながら泳ぐ感覚はなく、泳いでいるというより、むしろ溺れているような感覚だった。
「イメージと現実のギャップに戸惑いました。もう意味がわからなかったです。なぜできないのか、って」。
以前は簡単に泳いでいた25mですら泳ぎ切ることが難しくなっていた江島。3歳から始めた水泳は、再び、ふりだしに戻されていた。
 

江島を強くした恩師との出会い


ちょうどその頃、江島は高校の進路選択をする時期に差し掛かっていた。そこで江島が選んだのは、自宅から少し離れたところにある私立高校だった。選択の決め手は、水泳ができる環境があることだった。
一般的に、障がいを持つ者が自分に合った環境を探すことは、とても大変なことだと言われている。健常者であることが前提で成り立っている日本の社会では、まだまだ障がい者の受け入れ体制が整っているとは決して言えない。
江島は一抹の不安を抱えながらも、自分の水泳環境を作るために、高校の水泳部の監督に直談判しに行った。
「僕、障がい者なんですけど、一番端のコースでいいので、ほかの人に迷惑もかけないので、どうかお願いします」。
そう懇願する江島に、監督はこう回答したという。
「いや、特別扱いはしない。みんなと同じように練習をさせるし、試合にも出す。障がいがあるからと言って、一切の特別扱いはしない」。
その言葉に面食らったが、監督の言葉の通り、江島は、周りの部員と同じように練習し、試合にも出場した。この高校3年間が江島にどんな経験をもたらし、どんな影響を与えたのか。それは想像するに余りある茨の道だったはずだ。
「大会に出るときは、いつも辛かったです。同じ組で泳いでいた人は、とっくにゴールしているのに、僕はまだ泳いでいるわけですよ。僕が泳いでいる最中に、すでに次の組の人たちが今か今かと自分たちのスタートを待ちわびている。
僕がようやくゴールして息を整えていると、観客席はシーンとするんですよ。僕が障がい者だとわかっていないから、『どういうことだ?』って空気になっていて。退水するときも、みんなのように両手では上がらないので、プールサイドの横の段差を使って退水するんですけど、そのときも、“次のレース控えてるのに、なぜノロノロしているの?”っていう視線を感じるんです。それが本当に、すごく嫌でした」。
江島が「もう試合には出たくない」と監督に伝えたのは1度や2度ではなかった。だが監督はその度に、「いや、ダメだ」と言って江島を試合に出し続けた。
「辛かったですよ。でもあのとき、一般社会と普通に接する経験をさせてもらえたから、今も同じように普通に生活ができています。当時は、僕が自分自身に偏見を持っていたんです。『障がい者なんだから』って。でも、監督のおかげで、そんな偏見を取り払うことができました」。
冷ややかな視線を浴びる教え子を見て、監督も辛くなかったわけがない。監督の強い信念と決して惑わされることのなかった根気は畏敬に値する。


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